I want youの使い方

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『………』

1人になってから暫く、それまでバッグを見つめていたバンジークスは、徐に留め具を外して中を開けた。ぎっしりと本が詰まっていて、バンジークスはまるで壊れ物を扱うような繊細さで、カバンの中を隅々まで確認していく。

本、本、本…バッグの中身は、大量の本で占められていた。もちろん全部日本語だったが、学生の身分を考えるとこれらはテキストブックなのだろうとバンジークスは察する。

『――…』

手にした1冊の本を捲る。数式がびっしりと書かれたこの本は、数学書だろうか。100年後の未来、來と同じ年頃の女子は、皆このような高度な知識を学び、更には理解しているというのか。今の女子教育と言えば、料理や裁縫といった家政科目に重きが置かれている。この数学書のような、ミドルクラスの男子パブリックスクール並かそれ以上の高等教育を女子が受ける機会はない。むしろ、女子が勉学のために学校に通うという事すら珍しい時代であるのだ。

今度は違う本を手に取り、開く。こちらはノートブックのようで、手書きの文字が整然と書き込まれていた。丸っこく小さなこの筆跡が、來の字か。鉛筆で書かれた字の他にレッドやブルーのインクで書かれた字…それだけでなく、イエローグリーンやスカイブルーなど様々な色のインクを用いて書き込みされている。そしてどの色も鮮やかだ。キラキラと細かく光るインク字まである。見映えのために、貴金属を砕いてインクに混ぜるなど…このインクは恐らく高価な物なのだろう。10ギニーはするだろうかとバンジークスは思った。

彼女は…來は。

今の時代ではあり得ない事を、ごく普通に享受する事が出来る時代の人間……未来の、人。



【…元の場所へ帰ったという可能性もお忘れなきよう】



バンジークスの脳裏を過る、ラディから言われた言葉。眉間の傷が疼いたような気がして、思わず眉を寄せた。

そうして、バッグの中を丁寧に確認する…本ばかりだが。その中でも一際小さな本を見つけ、バンジークスは手に取った。手のひらほどの、いわゆる手帳をそっと開く。

『……ム』

中身に、バンジークスは思わず声を漏らした。手帳にあったのは数式でも文字でもなく、ページを埋め尽くすほどに貼られた小さな写真達だ。自分が知る写真のサイズより遥かに小さいが写りは遥かに鮮明なそれを、バンジークスは食い入るように見つめる――…どの写真にも、笑顔の來が映っていた。

彼女1人ではなく、同じ年頃の女子2人と共に並んで写っている。どの写真にも同じメンバーで収まっているのを見るに、彼女らは友人なのだろう。來も含め、皆笑顔だ。それぞれ思い思いにポーズを決め、心底楽しんでいる。彼女らの無邪気な笑い声まで聞こえてきそうなのは、映りが実物のように鮮明だからか。それとも…

來の、弾けるような笑顔のせいか。

『……フッ』

次のページを捲ったバンジークスは、思わず忍び笑いを漏らした。來が頬をぷっくり膨らませ、寄り目になって映った写真があったのだ。しかも、彼女だけでなく全員揃って珍妙な表情で写真に収まっている。どうやら、わざと変な顔つきで撮ったようだ。他にも唇を鳥のクチバシのごとく尖らせたり、全力でしかめっ面になったモノ、目をひん剥いてどアップで映ったモノなど、ユニークな内容の写真がそこにあった。そんな写真に、バンジークスは自然と唇を綻ばせて次の…一番最後のページを捲った。

『………』

開いたベージを目にしたバンジークスの顔から、笑みが消える。そこにあった写真は、今まで見てきたものとは明らかに違っていた。大きさも、そして内容も。

それは、これまでの小さな写真ではなく、バンジークスがよく知るサイズの写真だった。薄紅の花が咲き誇る木々をバックに、制服姿の來が少し照れたような表情で立っている。よく見ると、今の彼女よりも顔つきが少し幼い。数年前に撮ったものか。

開いたページの左側に、彼女1人だけで映る写真。右側には、構図は同じだが改まった服装の男女が、來の背後に並んで立っている写真。左右2枚で対となるようだ。男女は明らかに來より年上だが、これは……

『両親、か』

男女の顔のパーツそれぞれに、來との共通点を感じてふと呟く。その瞬間…胸の奥底から感情が強烈に込み上げてきて、バンジークスは奥歯をぐっと噛んで堪えた。全身が破裂しそうなほど暴れ狂うこの熱い感情が、一体何なのか分からない。分からないが――…

遥か彼方から、時代を越えてやってきた一ヶ谷來。

誰よりも遠い彼女は、今は自分と同じラインに立っている存在であり

自分と同じ、生きた存在であると

……彼女や、彼女の両親の写真を見て、ようやく理解出来た。いや、思い知らされた。心に食い込むように、深く深く。


『……………ライ』

呻くように彼女の名を口にし、手帳で目元を隠すと目を固く閉じる。一体…一体どこへ行ってしまったのか。どこへ行けば会えるのか――…閉じたまぶたに残る來に向かって、バンジークスは強く強く心の中で問いかけた。




***




一方。

來は拉致された5日前と同じベッドで、仰向けに寝かされていた。

「…………」

視点の定まらない虚ろな瞳は、ベッド脇の机に置かれた1冊の分厚い本――…大英帝国の歴史書…を、見ている。見ているというより、ただ単に瞳に映しているだけだ。明確な意思も目的もなく、視線の先にある本をただただ見ている…そうやって目を開いているだけの來の右腕には注射針が打ち込まれ、そこから伸びる管は点滴へ繋がっていた。薬液が規則正しいリズムで滴り落ちるが、その音さえも聞こえないほど辺りは静かだ。

拉致されてからどれくらいの時間が経ったのか、來は既に分からなくなっていた。薬を投与されて意識を失い、再び目が覚めるとそこにはにこにこと朗らかに笑む医師がいて、どんなに嫌がっても薬は投与されてまた強制的に気を失ってしまう。そして目が覚めると笑顔の医師がまた――…

「………」

同じ時間を繰り返し巻き戻っているのだろうか。未来から過去へ巻き戻ったように、自分は時間を巻き戻る体質になってしまったのか。

【君を必要としているのは、世界中で僕だけだよ。君の価値を知っているのは、僕だけさ】

「――…」

ふと脳裏に甦った、医師の声。彼は薬を投与する前に新聞紙を広げてみせ、『今日も君の捜索願いは出されてないようだ』『誰も君の事を探してないみたいだよ』と告げてから來の腕に注射する。そして、先程の台詞を繰り返すのだ。自分を必要としているのは、彼しかいないのだと…

――…そうかもしれない。來はぼんやり考える。彼、バンジークスにとって自分は所詮ただのメイド。しかも未来からタイムワープしてきたという厄介な事情がある分、他のメイドより扱いづらい。そんな自分がいなくなって、バンジークスもさぞかし安堵しただろう。厄介事から解放されたのだから。



私はここにいるのに



誰も助けに来てくれない



"ここ"に縁もゆかりもない自分を、誰が助けに来るというのか



こんなにも辛い思いをしてまで、ここの未来を守る義務も義理も自分にはない



未来がどうなったって、自分には関係ない



だから



もう――…



…………



……







「…………っ」

それまで虚ろだった瞳に涙が溢れ、頬を濡らしていく。止めどなく零れていく涙をそのままに、來は小さく嗚咽を漏らした。

…確かにここは、自分にとって何ら関係のない時代だ。それでも、自分はここに来てしまった。ここで…生きてきたのだ。

快活なノーラの笑顔。小難しい表情で説教するラディ。気さくな八百屋の主人、商店街のみんな…

そして、バンジークス。

自分は、彼を裏切ってはいけない。

例え彼が、もう自分を必要としていなくても…!



「…………」

來は大きく深呼吸をする。

虚ろだった瞳は、確かな意思を持って視線の先を見据えていた。



***
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