I want youの使い方

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そして、その日の夜。

いつものように帰宅したバンジークスをいつものようににこやかに出迎えたラディは、玄関扉を閉めるなりすぐさま表情を重くさせた。

『……どうした?』

執事の変化に気付いたバンジークスが問うと、ラディはぐっと声を潜めて告げる。

『娘がまだ屋敷に戻っておりません』

『…………また公園で空でも眺めているのではないか?』

ラディの報告を一笑に伏したバンジークスだったが、傍に控えていたノーラの青ざめた表情を見て眉間にシワを寄せた。

『御主人様、今回は前回とは少々事情が違うのです』

『……アタクシ、ライちゃんにおつかいを頼んだんです。夕食に使う牛肉とチーズと朝食に使うベーコン、卵……あと、えっと、なんだったかしらね…』

『ノーラ。買い物の内容は関係ないでしょう?』

『まっ、まぁ、ごめんなさい。確かに関係ない話ですわね…………で。おつかいを頼んだんですけど……いつもなら30分くらいで帰ってくるのに、今日はいつもより遅いわね〜なんて思っているうちに――…』

『夜になったとでもいうのか?その前に探さなかったのか?』

険しい表情で問い詰めるバンジークスの迫力に、ノーラはその大柄な体を縮こませて『違います違いますっ』と必死に弁解する。怯えてしまった彼女に変わって執事のラディが話を続けた。

『無論、探しました。前回、呆けて道草食ってた公園も含め、心当たりは全て』

『八百屋の主人がおつかいに行くライちゃんに挨拶したそうなんですが、別段おかしな事もなかったそうで……』

『あと……その八百屋の先の道端に、藤かごと屋敷の家紋が入った小銭入れが落ちておりました。手がつけられたような形跡はありませんでしたが』

『…………』

2人から代わる代わる説明を受けたバンジークスは、拾ったという藤かごをラディから受けとる。中の小銭入れを手に取ると、確かに中身は入ったままのようだ。

『……イチガヤはこの藤かごを持って買い物へ行き、かごは落ちていたが本人は行方知れず…というのだな?』

『………………いえ。藤かごと、確かバッグを持っておりました』

ラディの補足に、バンジークスは更に表情を険しくさせる。

『バッグを?』

『娘の私物です。本人と共に移動してきたモノでございます』

そう言われて、バンジークスは思い出す。未来から彼女と共に来た、辞書や筆記用具に薄型の電話機と…

『………』

ワインレッドの表紙に大英帝国国章のシーリングスタンプを施した"歴史書"の存在が脳裏を過る。バンジークスの表情が険しさを増した。

『それで。この件については以上か?』

『…と、言いますと?』

『ヤードに捜索願いを届け出たりは?』

『いえ。そういったことは何も』

ラディの言葉を、バンジークスは鋭い眼光で睨みつけた。

『…人一人が行方知れずになろうとも、たかが使用人ごときにそこまで労力は掛けられんか?』

怒気を孕んだ、低く重い呟き。怯えて身を竦ませるノーラとは対照的に、ラディは澄ました表情で主を真正面から見据えた。

『……お言葉ですが御主人様。使用人の管理は、このラディの役目でございます。もちろんあの娘も含めて。本来ならばヤードの協力も仰ぎたいところですが…娘の"事情"を鑑みた結果、大規模な捜索はしない方が良いと判断しました。娘の素性について、もはやお忘れになられましたかな?』

執事の諭すような台詞に、バンジークスははっと表情を強張らせた。娘――…來の行方を探す為に、ヤードに協力を頼むとなるとまず本人の調査から始まる。いつ、どこから、どうやって、何の目的で来たのか…要するに渡航履歴だ。しかし、彼女の場合は渡航履歴どころか旅券もない。密入国と判断されて日本国政府に問い合わせが行けば戸籍が調査されるだろう。だが、未来から来た來の戸籍は、この世に存在しない。

文明開化間もない日本から大英帝国へ出国しているにも関わらず戸籍がない。そんな矛盾に気付かれたら――…

『………そう、だったな。ラディ、お前の判断は正しい。この事は公にすべきではない』

『ご理解いただき、ありがとうございます』

『こうなった以上、我々だけで探すほかあるまい。ここ周辺はくまなく探したのであろう?』

『彼女の行動範囲とおぼしき場所は一通り…ですが御主人様、今日のところはお休みになられて明日また探しましょう。明日になればひょっこり帰ってくるやもしれませんし、テムズ川から流れてくる事も……あぁ、失礼』

気を紛らわせようと口にしたブラックジョークだったが、主の様相が一気に険しくなったのを見て謝罪するラディである。しかし、そんな最悪な結末も十分ありえる事態だ。

『…局へ戻る。事件性も視野に入れるなら何かしら手掛かりが見つかるかもしれん』

『御主人様…』

『お前達は先に休んでいろ』

止めようとする執事を振り切って屋敷を出たバンジークスは、固い表情のまま夜道を足早に歩き出した。微かな冬の気配が頬に当たり、研ぎ澄まされた冷気を感じたバンジークスはマントの襟元をぐっと引き寄せた。



***


……………

………

……

きもちわるい

あたま 痛たぁ〜〜…



…そんな圧倒的な不快感と共に、來は重い瞼を懸命に開けた。

「…………」

ゆらゆらと波打つ水面のような視界に、來は焦点を合わせようと何度も瞬きを繰り返す。ダブる視点がすれ違いながらもようやく落ち着いてきて、次第に浮かび上がってくる形を懸命に見つめた。肌色……白で……茶色が……もしかして人ーー…??

「…………だ、れ――…?」

『あぁ。やっと気付いたかな?どれどれ…』

來の掠れた呼び掛けに、男の声で返事が返ってくる。柔らかく優しげな雰囲気の声音にぼーっとしている間、目の前の人影はこちらの額に手を当てたり目の下を捲ったり首筋を触ったりと、まるで医師が診察するような動きを見せた。いや、もしかしたら医師なのかもしれない。

『……うん。異常は特にないね』

一通り診察が終わったらしい彼が、『良かった良かった』と安堵する。來はずっと瞬きを繰り返し、目の前の人影を確認しようと必死だった。柔和な様相に白衣、首から聴診器を下げている格好が見えてやはり医師なのだと確信する。

むしろ…

一度、どこかで会ったような気が――…

『…………ぁ、の……わたし…なにが………?』

『うん?あぁ、大丈夫だよ。"ここ"には僕と君の2人だけだから』

"ここ"と言われて來はようやく周囲に視線を向ける。目覚め始めたばかりの意識でははっきりと捉えにくいが、質素な作りの部屋だった。屋敷にある自分の部屋とは違うから、病室かもしれない。少し暗くて埃っぽいが。辺りをぼんやりと伺う來をにこやかに見つめながら、医師は口を開いた。

『まだ薬が抜けきってないから気持ち悪いだろうけど、体に害はないよ。僕が調合したヤツだから市販のより強かったかもしれないね』

『くす、り………?』

『手荒な真似をして本当にごめん。しつけのなってない底辺階級のゴロツキは加減を分かってない』

『………ぇ…………?』

医師の語りかけに來は困惑する。薬?害?ゴロツキが…何??彼女のそんな戸惑いを読み取ったのか、医師はますます笑顔を深めて來の頬を優しく撫でた。

『君は………本当に未来から来たんだね』

『――…え?』

確信をもって告げられた、屋敷以外の人間が知り得るはずのない"事実"を突き付けられ、凍りつく來。終始笑顔のまま頬を撫でる医師は、どこか誇らしげに語った。

『ただのメイド…しかも開国したばかりのニホン人が、大英帝国の名門貴族と同等かそれ以上の学を持ってるなんてどうにも不思議でさ。あの日からずっと君の事を調べていたんだ』

「……!」

來は唐突に、そしてようやく思い出した。ここに来たばかりの頃、バンジークスに連れていかれた病院で自分を診察したあの医師だ。

『調べれば調べるほど君は謎だった。渡航履歴も旅券もない、密入国にしては不自然なくらい痕跡が何もなかったんだ。仮に君が密入国者だったとして、その罪を咎めるべき検事と住まいを共にするというのもおかしな話だ。そうやって調べていくうち、僕は面白い事に気付いた』

頬を撫でる手を止めて、医師は顔をぐっと近づけてきた。

『君がおつかいで外に出た時、いつも通る道を避けた時に限って事故が起こる。予想し得なかった急な豪雨に皆が驚き慌てる中、君だけが傘を取り出して差す。まるでこの事を予め知っていたかのように…』

ね?と、優しく問われてるが、來は絶句したまま目の前の医師を見つめる。

『この前、季節外れの大雪が降った時も冬支度をしていたのは君とバンジークス卿だけだった。あの日は突然の冷え込みに凍死した連中もいたのに、君達だけはちゃんと準備をしていた……ただの偶然かな?』

『………』

『これだけじゃないよ。君達は時々"予言書"だとか"君がいた時代は"とか、妙な会話をしているね?それに君を診察した時の用件は"未来から来たと妄言を吐く"だった。でもあれは妄言でもなんでもなく、れっきとした事実だったんだ』

『……なんで…………わたしたちのはなし――…』

確かにそういう会話をしたことが何度かある。でもそれは、自分の事情を知っているバンジークス家の人間にだけだ。もちろん人前で話したこともない。むしろ第三者に知られないように配慮していた。なのに何故――…

『盗み聞きも尾行も監視も…そして拉致も。金さえ払えば何でもしてくれる人間てのがいるんだよ……この時代にはね』

医師は満面の笑みで説明する。そして來から離れるとゆったりと歩きながら天井に向かって両手を掲げた。

『すごい…すごい、すごい事だよこれは!この世の行く末を知る人間が!こんな身近にいるなんて!しかも予言書まである!!何でこんなすごい事を放置しているんだ!?大いなる損失だよ!!!』

高ぶる感情を爆発させて、医師は再び來に詰め寄る。ぎらぎらと不気味に輝くその目に、來は身震いした。

『その予言書に書いてある未来を、僕が世間に伝えたら…どうなると思う?事故、天変地異、戦争…未来の全てを言い当てたら、人々は僕をこう呼ぶに違いない………

神、と――…!』

『………!』

『黒魔術を始めとするオカルトに入れ込む貴族はまだまだ沢山いる。彼らは予言者たる僕を神と崇め、畏れ、ひれ伏す。学のない下級層連中も、僕の予言が次々に当たればあっさり信じ込むさ。そうやって次々に僕を信じて崇める奴らが増えて、やがてそれは政府も王室も飲み込んで世界に広がる……世界だよ世界!ねぇ!すごいことだろう!?』

高笑いと共に、医師は叫んだ。

『世界が!この世の全てが僕を崇めてひれ伏す!!世界を手に入れることが出来る!!』

『………っ、』

『僕が神で、そして君は女神だ……僕らでこの世界を統べよう。全てが思いのままになる』

『……や、だ』

來は、恐怖に強張る顔をゆるゆると横に振った。世界征服――…そんな馬鹿馬鹿しい話が現実になろうとしている。いや、なるのではなく…本気で実行されようとしている。彼が恍惚に語った夢は歪みきっていて、とてもじゃないが共感できない。

彼のみが満足する世界……

それは彼以外の人間にとって恐怖の世界そのものだ。



『…ぜったい……ぜったいに、いや――…そんなの、わたし、しない…!』

『…………君は優しいから、そういうと思ってた。でも――…そのうち僕に従うようになる』

医師は満面の笑みで右手を掲げる。手にしているのは注射器だ。彼がシリンジを押し込むと、中身がぽたぽたと針先から溢れ出る。そして、徐に來の右腕を捲り、露になった肌に針先をゆっくりと近づけていった。未だ薬の影響下にある來は、逃れようと懸命にもがくが体は鉛のように重く、動いてはくれなかった。己の腕に刺さらんとする針先を凝視するしか出来ない。

『いやだ…!やめ……っ、いや――…!いやだぁ…っ!!』

『ほら。そんなに暴れたら、いくら僕でも手元が狂いそうだよ』

朗らかに笑う医師は、彼女の右腕を押さえつけ…つぷっと針先を肌に突き刺した。刺す瞬間、來は目を固く閉じる。微かな痛みと、そこから熱がじわりと押し込まれて体内へ流れ込む――…そんな感覚に、固く閉じた瞳から涙が滲んで頬を伝った。

『っつ………う、ぅ…!』

『ふふ、痛かったかい?最初は気分悪くて辛いだろうけど、繰り返し投与していくうちに良くなっていくからね。気持ち悪いも、辛いも痛いも嫌も、何も思わなくなる』

よしよしと子供をあやすように、医師は來の頭を撫でる。そんな彼の言葉は、暗いところへ落ちていく意識と共に一気にぼやけて遠退いていく。

辛いも痛いも何も思わなくなるとは、一体どういう意味だろうか。

そうなった自分は、どうなるの……?

「…………っ」

抗おうと思う事すらあっという間に闇に飲み込まれて、來は再び意識を手放した。

両親でも友でもなく、バンジークスの姿を脳裏に写しながら――…



***続
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