I want youの使い方

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ぐらぐらと湯だった大釜に、頭まで浸かりきっているかのような。

そんな感覚の中に來はいた。



意識も全身も、ぼこぼこと沸騰する泡に揺れながら暗い奥底まで沈んでいきそうだ。肺も熱い空気で塞がれたかのように、ひどく息苦しい。それでも何とか浅い呼吸を繰り返しながら、來は沈まないようにと必死になってもがいていた。こんなところで寝ているわけにはいかないのだ。

早く起きて働かなきゃ。

早く起きて勉強しなくちゃ。

寝てる暇なんてない。休んでる時間なんてもっとない。

働かなきゃ、勉強しなきゃ。

だって

役立たずだと思われたら…使えないと思われたら……

きっと追い出される。そしてまた追いかけ回されて、盗まれて、叩かれて……

「う――…」

焦る感情が高ぶり、肺を圧迫して呻き声が押し出される。初めて"ここ"へ来た時の出来事が、來の脳裏を幾度も掠めて責め立てた。



働かなきゃ。

勉強しなきゃ。

追い出される――…!



「………ぁ」

ふっと頬を撫でる冷たい感触に、來は小さく声を上げて重い瞼を持ち上げる。うっすらと滲むように見えたのは…

「ば……ばんじーくす、さ――…」

呻くように名前を呼ぶ。彼が、バンジークスが、目の前にいる。思わず起き上がろうとする來だったが鉛のように重たい体はそれを許してくれず、來は頬を触る彼の手に自分の手を重ねた。

「ご、ごめんなさ――…ごめんなさい。今、起きま…す。ごめんなさい…っ!」

懸命に謝る來の瞳に、みるみるうちに涙が溢れて音もなく零れていく。そんな雫を何度も拭う彼の優しい指先にますます自責の念が込み上げてきて、思わず目をぎゅっと瞑った。

「わたし…ちゃんと、大丈夫、なんです……今、起きます………働きます。だから――…ここに、居させてくださ…お願い、です……」

焦りのあまりもう英語すら思い出せない來は、目の前のバンジークスに必死になって懇願する。しかし、彼は眉1つ動かさず無言のままだ。言葉が届いていない様子に、來が不安に駆られた時だった。

「――…ライ」

それまで真一文字に結ばれていた彼の唇から、自分の名前が零れ落ちる。低く優しい響きが鼓膜に触れて、來は閉じていた目をゆっくりと開けた。

「ライ、焦ることは、ない。心配するな。大丈夫だ」

「………」

彼の言葉が、するりと耳に入ってくる。容易く聞き取ったその言葉が胸の奥に染み込んで、あれだけ重たかった体がふわりと軽くなった気がした。

「こんな事で、君を追い出したりしない。今は、ゆっくり休め」

「ばんじーくす、さ……」

彼が口にする労りの言葉が、彼自身の声音で自分に直接触れる。その感覚に來は驚いたように目を見開き、バンジークスをまじまじと見つめた。そんな瞳の中心を、彼はまっすぐに見つめる。



そして。



そんな2人を、成歩堂と寿沙都が見守っていた。



「でも…休んでる暇なんて――…働かなきゃ…そう約束したのに、わたし……寝てたら私は…!」

バンジークスしか見えていない來は、構わず彼に訴えかける。彼女のそんな悲痛な訴えを、寿沙都は英語でバンジークスへと静かに伝えた。彼はそれに対する答えを呟き、それを聞いた成歩堂が静かに日本語に言い直す。そしてその日本語を、バンジークスはそのまま発音して來へと届けた。2人を介して紡がれる來との会話。成歩堂はたった1回聞いただけで日本語を正確に発音するバンジークスの理解度の高さに驚いた。

「…自分を追い詰めるな。休んだからと言って、ここから追い出したりしない」

「でも……でも――…私…っ」

「元居た場所へ、必ずや帰るのだろう?両親や友が住まう世界へ帰ると…君は、そう決心したのだろう?」

「………うん」

「君が帰るその時まで、君を守ると約束する――…必ず、君を守る」

バンジークスの言葉に、來の中で膨らんでいた焦りが急速に消えていく。そして入れ替わるように安堵感が満ちていって、來は心地よさそうにゆるゆると目を細めた。

「ばんじーくすさん……」

「――…だから、今は休め」

そっと柔らかく、彼の指先が鼻筋をなぞっていく。それに促されるように來はゆっくりと目を閉じた。すべてが穏やかに静まり返り、そのまま深い眠りへ沈んでいく。

あぁ。

やっぱり。



私には、この人が――…



「ばんじーくすさん……」

「?」

「I want you……」

微かに笑む來が口にした英語に、その場にいた成歩堂と寿沙都はぎょっとして目を丸く見開く。バンジークスだけは真顔のまま、安堵の表情で眠りにつく來を見つめ続けていた。



***続
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