I want youの使い方

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そうして。

來がバンジークス邸で過ごすようになって数日後のある日。

屋敷に1人のヤードが訪ねてきた。






『お願いいたします。自分を救えるのは貴方しか……っ!』

『ま、まぁまぁまぁ…そんな事を言われてもねぇ〜〜』

広いエントランスホールでは、土下座せん勢いで懇願するヤードと、ほとほと困った表情でそれに対応するノーラの姿があった。ヤードはすっかり怯えきっているらしく、青ざめた表情でノーラに縋り付いている。

『お願いいたします!"コレ"をバンジークス卿へ……ボクの代わりに渡すだけでいいんです!』

『まぁまぁ。そう言われましてもねぇ〜…ウチの執事は今日はワインの買い付けとかで夕方まで留守してるし、アタクシもカマドに火を入れたばっかりで離れられないですし……』

『そこを何とか…!事故だったとはいえこんな失敗をしでかしてしまったなんて知られたら…あぁ、ボクはきっと殺されてしまうに違いない!』

『まぁまぁまぁ、随分と大袈裟ですこと。御主人様はそこまで恐ろしい御方ではありませんから』

『ですがっ!オールドベイリーの死神なんでしょう!?ボクはっ…ボクはまだ死にたくない!』

涙目で訴えるヤードにノーラは呆れたように溜め息をつく。何でも昨夜、このヤードはとある裁判の為にバンジークスが準備していた証拠品を派手にぶちまけてしまったらしい。慌てて片付けたはいいもののその時に証拠品が1つ、懐に入れていた私物と入れ替わってしまった……という事に次の日である今気付き、バンジークス邸へ青い顔で駆け込んだのだった。裁判はとっくの昔に開廷しており、審理に参加しているであろうバンジークスの前でこんな大失態を報告する勇気がない彼は、誰でもいいから代わりに行って欲しいらしい。

さて、どうしたものかと考え込んだノーラだったが…戸口からひょこっと顔を覗かせ様子を窺っていた來を見つけ、はっと目を輝かせた。

『あ!そうだわ!そうね、それがいいわ!ライちゃん、こっちいらっしゃい!』

『…ハイ?』

手招きされて、來は戸口からおずおずと2人に歩み寄る。こちらをぽかんと見るヤードにひとまず会釈した來は、微笑むノーラに向かい合った。

『あのね、ライちゃん。お願いがあるの』

『ハイ!』






***






………そうして。

茶封筒をノーラから受け取った來は、それをトートバッグには入れず手に持ったまま、彼女が呼びつけた馬車に意気揚々と乗り込んだ。ノーラは御者の男に少し多目の硬貨を渡しながら行き先を告げて、來の事をよくよく頼むよう言い含める。

『のーらサン、イッテキマス!』

『行ってらっしゃい!頼んだわよ〜〜』

馬車の小さな窓越しに手を振る無邪気な來の姿に、ノーラもまた無邪気に手を振って見送った。まるで人生初のおつかいに行くような彼女らの様子を、ヤードは怪訝そうに見つめる。

『…………ホントに大丈夫なんですか?あの子で』

『もちろん!少なくとも、貴方よりずっと頼りになるわ』

ノーラがにこやかに放った痛烈な皮肉に、ヤードは言葉を詰まらせたのだった。



***


やがて。無事に目的地であるオールドベイリーへと到着した馬車から降り立った來は、目の前にそびえ立つ大きな建物をぽかんと見上げた。まるで神殿のような、その威厳ある佇まいは近寄りがたい雰囲気を放っていて來は手にした茶封筒を思わず胸にぎゅっと抱き締める。用が済んだ馬車はとっくに立ち去り、1人ぽつんと残された來は緊張の面持ちで辺りを窺いながら恐る恐る中へ入っていった。

「……………」

怖いくらい静まり返っている内部を進んでいく。季節が真冬だからか、空気までも凍りつき沈黙しているかのようだ。そんな静寂は、どこかバンジークスに似ている……屋敷に置いてほしいと懇願した夜以来、まともに彼と話せないが。そんな事に思い当たった來の表情が、少し翳った。

バンジークスは屋敷の主で、例え仕事に関する話だろうと使用人から話し掛けたりしない。いや、してはならない。彼と話が出来るのは執事・ラディだけだ。來は厳密には使用人ではないが、扱いはノーラと同じで話はおろか一緒に出掛ける事もない。名前を呼ばれる事はたまにあるが、前のような『ミス・ライ』でなく『イチガヤ』と呼び捨てだ。イギリスは厳密な階級社会で、個々の出自が人生を決めるといっても過言でない。あの夜を境に居候の身となった自分は客人ではなく、バンジークス家に従事する一員で、扱いもそれに相応しいものに変化したというだけなのだ。そう分かってはいるものの、能力者と会う前の…彼にあちこちに連れ出してもらった日々が酷く遠くて、そして酷く懐かしい。



――…ただのおつかいだけど、少しお話出来るかな?



そんな淡い期待に胸を高鳴らせていた來を、1人の男が突然呼び止めた。ノーラに向かって必死にすがり付いていた男と同じ制服を着ている…彼もまたヤードのようだ。

『そこの娘!東洋人の分際で厳粛たるここへ何しに来た?』

『……………ハイ!初めてマシテ!ワタシ、ライ・イチガヤです!ゴキゲン イカガ ですカ?』

彼女の口から飛び出た拙い英語に、それまで威圧的だった男は途端に『ムッ!?』と目を剥く。戸惑う彼に構わず、來はすぐさま『ワタシ、コレ、届くスル、ばんじーくすサンに…』と茶封筒を示しながら一生懸命説明しだした時だった。

『…バンジークス卿だと!?するとその封筒は証拠品か!娘っ!早く来るんだ!時間がない!!』

「え?………わあぁっ!?」

男は來の腕を掴むなり、有無を言わさずぐいぐい引っ張って走り出す。あまりの迫力に、來はされるがままだ。





そうしてずんずんと奥深い場所まで來を引っ張ってきた男は、目の前の大きな扉をそのままの勢いで開け放つと同時に『裁判長!証拠品が到着しました!』と高らかに告げ、來をぽいっと中へ放り込んだのだった。



***
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