I want youの使い方

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そうして時計の針は淡々と進み、時刻は深夜。バンジークスは1人キャリッジに乗り、暗闇に沈む石畳の道をゴトゴトと揺られていた。いつもの冷淡な面持ちに、僅かだが疲労の色が滲んでいる。

『………』

座席の肘掛けに頬杖をつき、足を組んだ格好のバンジークスは静かに溜め息を吐く。小さな窓から見える外の様子は、とっぷりと濃密な闇に沈んでどこまでも静かで、がらがらと響き渡る車輪の音だけが"今"を支配しているかのようだ。そんな闇夜を無言のまま見つめていたバンジークスだったが、ふと脳裏をよぎった來の姿にその切れ長の瞳を細めた。

――…未来から来たと言う少女。言葉が不自由で、そのせいか見た目よりひどく幼い印象を受ける。何故か自分に懐いているが…正直、面倒事に巻き込まれたくない以前に、日本人に関わりたくない。彼らは…日本人という生き物は――…

『………』

呼び起こされる数年前の記憶に、バンジークスは指先で眉間に刻まれた古傷に触れる。その凹凸を確かめるように撫でながら、視線を鋭く研ぎ澄ませた。彼女と出会って…いや、保護してまだ1日半。手を引くなら、病院にいる今がチャンスだ。このまま屋敷に帰り、何事もなかったかのように過ごせばいいだけの事。



そう。それが一番いい。ややこしい事には関わらないのが、一番賢い。



『…………』

繰り返し繰り返し、まるで念じるように己自身に言い聞かせる度に、バンジークスの脳裏には別れた來の姿が鮮烈に焼き付いていく。ぼろぼろに泣きじゃくり、不安に押し潰されそうになりながらも"必ず戻る"という自分の言葉を信じて待っているであろう彼女の痛々しい姿が。

『………っ』

迫ってくる彼女の残像を目をきつく閉じて打ち払い、小さく舌打ちをしたバンジークスは次の瞬間、ステッキを手にするとその持ち手で御者側の壁をごつんと力強く叩いた。馬車がすぐさま反応してぴたりと立ち止まる。

『…寄る所がある。今から言う場所へ回してくれ』

そうして彼が口にした行き先の方向へ馬車はぐるりと転換すると、再びがたがたと進み始めたのだった。



***



時間も時間だった為、病院の正面玄関は閉ざされていた。が、その横にある急患受付らしき小さなドアにはランプが煌々と灯っている。そのドアをノックしたバンジークスは、応対した看護婦の案内を受けて診察室へ通された。來を任せた医師と会話した部屋だ。暫く待っていると、その医師がやってきた。バンジークスはゆるりと黙礼する。

『…仕事が立て込んでしまったとはいえ、このような夜中に訪問した無礼をお許し願いたい』

『いえ、大変でしたね』

医師は自分の席に座りながら柔和な笑みを浮かべつつ、バンジークスに着席を促す。彼が木の椅子に腰を下ろしたのを見計らって、カルテを眺めていた医師は口を開いた。

『お預かりしていた、あの東洋人のクランケですが』

『………やはり。彼女は何かしら病んで…?』

『そうですね。まぁ、異常と言えば異常でしょうか』

医師のそんな台詞に、バンジークスは思わず口元を強張らせる。しかし、医師はのんきに笑いながら後ろ頭をぽりぽり掻いた。

『彼女の異常な英語力の低さ。いやぁ、なかなか通じなくて手こずりました。東洋人だから致し方ないとは思いますが』

『―――…異常なのは、どん底に近い英語力。それだけ、と?』

すると医師は、にやりと含みを持たせる笑みを浮かべ『いえ』と短く否定した。

『彼女の、異常なまでの学力の高さ…です』

『………彼女が?』

『確かに彼女の英語力は幼児並です。が、しかし、それ以外の学力には目をみはるものがあります。昨今は女子の高等教育が活発ですが、始まったばかりで歴史的には浅い。それなのにこの学力の高さはさすがとしか…男子でないのが実に惜しい』

『………未来から来た、という妄言は?』

しきりに感嘆する医師に問いかけると、相手は『あぁ』と軽く相槌を打った。

『そのような事は、一言も言いませんでしたよ』

『何…?』

『自分は1883年生まれで、17歳になる日本人だとしか』

『………』

みるみる渋い表情になるバンジークスに、医師は更に続けた。

『未来から来たんだって?と、問い掛けたんですがね。"いいえ"ときっぱり』

『………』

『本当にそういう妄想に憑かれてる人間なら、"自分の話を真面目に聞いてくれる"と感激してべらべら話してくれるんです。しかし、彼女は違った』

医師はカルテをデスクに置くと、バンジークスに向き直って彼をまっすぐに見つめた。

『学力は高く、英語が弱いが…彼女の精神は正常である。それが僕の所見です』

『………』

『あ。別に貴方が言う"妄言"を否定してる訳ではありません。わざわざ来られたのですから、彼女は実際にそんな事を言ったのでしょう』

バンジークスは医師の言葉に頷かず、静かに見据える。

『でも彼女は、僕には言わなかった。何故か――……それは僕が医者で、それを言うと強制入院、もしくは隔離され自由を奪われる事になると"理解"していたからです』

『理解…』

『今、自分が置かれている状況を理解し、最善の答えを選択する……精神を病んでいる人間が取る行動だとは僕は思えません。最近、凍死しかけたと仰ってましたよね?その後遺症的な…まぁ、一過性の症状に過ぎないのでは?それとも…』

『それとも…?』

『――…実は本当に未来から来た。そういう結論には、ご興味ありませんか?』

笑みを浮かべながら尋ねられ、バンジークスはひくりと眉間にシワを寄せる。

『今はまだ始まったばかりの女子高等教育も、100年後には彼女のように高い学力を持つ女子が普通になっている。これなら精神状態は正常なのに"未来から来た"と妄言を吐くのも、納得出来ませんか?』

『――…彼女の容態にさしたる問題がないのならば、引き取ろう』

表情を変えず、まるで話を切り上げるようにバンジークスは自ら申し出る。医師は笑みを崩さず『どうぞ』と快諾した。ランプを手に席を立ち、來の元へ案内するように部屋を出ていく医師の後に従い、バンジークスも動き出す。

そうして導かれたのは…病室ではなく病院の正面玄関内側、いわゆるロビーだった。思わぬ場所に案内され、訝しげに顔をしかめるバンジークスだったが、医師が持つランプに照らされたソファーに横たわる人影に気付き…はっと目を瞠る。

『ロビーは寒いから病室に行こうと言っても、頑としてここから動かなかったもので』

『………』

ソファーに横たわる人影を、バンジークスは無言のまま見下ろす――…別れ際に羽織らせたマントにくるまり、穏やかな寝息を立てる來を。

『診察が終わってから今までずっとここに座って、あの玄関扉を見ていたんです。ずっーと、ね』

『………』

『日が暮れても、病院から人がいなくなっても、明かりを消されても、1人になっても……貴方が戻って来るのを、ずっと待ってたんですよ』

穏やかに語る医師の話を聞きながらバンジークスはソファーの前に跪くと、眠る來を窺う。子猫のように丸くなって寝ている來だが、その目元が赤らんでいるのを見つけて瞳を細めた。

『彼女は、泣いていたのか?』

『……えぇ、声を押し殺して。今は泣き疲れたのかこんな感じで』

『………』

バンジークスは1つ息を吐き、眠る來をそっと抱き上げた。一瞬、むずがるように呻いた來だったがすぐにすぅっと健やかに寝息を立てるとバンジークスの胸に擦り寄る。彼女の些細な仕草に、バンジークスは表情を険しくさせた。

『世話を掛けた。礼はバトラーに持ってこさせる…翌朝になってしまうが容赦していただきたい』

『構いませんよ。経理担当は今いませんから』

医師の返答に軽く会釈し、バンジークスは來を抱えて颯爽とした足取りで夜の病院を後にしたのだった。



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