I want youの使い方

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狭く暗い道からようやく抜け出た來は、1人橋の下にいた。座り込んだ自分の周囲を、側にあったいくつもの木箱でガードするように積み上げる。箱の中身は空だが、冷えきった外気を遮断しただけで寒さがだいぶ和らいだ。

そうして少しだけ落ち着いた來は、改めて今の状況を確認する。スクールバッグを盗られた今、自分の全財産はトートバッグの中身だけだ。図書館から借りた"大英帝国の歴史"の本、英文に訳す宿題の為に予め入れておいた英和辞典と和英辞典、シャーペンと消しゴムが入っただけのペンケース、盗られる前に入れたスマートフォン、ホットミルクティーが入ったペットボトル……飲みかけだし、既にもうホットではなくなってしまったが。

後は、拾った英語の新聞紙。西暦1900年1月9日…らしい、今が。

「………」

寒さが和らいだとは言え、寒い事に変わりはない。カチカチと歯の根を震わせながら、來は英和辞典を取り出すとスマートフォンの明かりを頼りに英字新聞に目を通し始めた。何で115年前の世界へタイムワープしてしまったのか…いくら考えても分からない原因を考えるより、この世界の状況を少しは理解しなければ。

―――……

――……

―……



………



そうして。

一晩中、辞書と英字新聞を交互に睨み付けながら、來は必死に今の状況を読み解こうと戦った。

次第に白む空気を木箱越しに感じながら分かった事は…

日付はともかく、ここはイギリスだと言うこと。

近い内に万博が開催されるらしいこと。

……ぐらいだった。これらの情報がどう役に立つのか、來は皆目検討もつかない。

とりあえず一昔前のイギリス、という事は分かったので、調べる先を新聞紙から"大英帝国の歴史"の本へ変えた。こちらは日本語で書かれているので、來は夢中で読みふける。さすが"大英帝国の歴史"と銘打っているだけあって、内容は歴史だけでなく当時の社会構造…生活・風習・習慣・政治・インフラ・犯罪に至るまで事細かに書かれてあって、相当な情報量だ。大の男を張り倒せただけの事はある。

1900年代のイギリス……大英帝国。今の大国といえばアメリカだが、この時代における大国はイギリスだった。技術力、産業、領地…あらゆる分野においてトップクラスだったらしい。全盛期には世界の至る所に植民地を保有し、その総面積は史上最大。大国を超えた"超大国"とまで言われていた。

そんな産業革命のピーク真っ只中にある大英帝国だが、その変革は良い影響ばかりではない。急激な経済変化による貧富の差の拡大、劣悪を極める衛生環境、犯罪率の増加…きらびやかな躍進劇の裏に潜む"闇"をついさっき体感した來は、思わず顔をしかめた。自分のスクールバッグを盗んでいったあの子は、そういう闇から繋がる負の鎖なのかもしれない。

産業革命がもたらす活気溢れる昼の顔と、3000もの売春宿にアヘン窟が軒を連ねる夜の顔…大英帝国。本にはご丁寧に「売春婦(Whore)」と英単語が添えられていて、これを見た來はあの男がやたら口にしてた「ホア」の意味するところを知って表情を暗くした。夜遅い時間に女の子が1人街角に立っていたのだから間違われても仕方ないとはいえ、まさか売春婦と思われたなんて。

空腹を紛らわす為に、來はすっかり冷えたミルクティーのペットボトルをちびちび舐め、スマートフォンの電池節約の為に電源を切ってバッグに入れると抱えた膝に顔を埋めた。寒さとひもじさに果てしない虚しさが押し寄せてくる。そんな途方もない悲しみから己を守るように、來は力一杯自分を抱き締めた。







そうして。

夜が明け、昼が過ぎ、ゆっくりと辺りが暗くなっていくまでの長い長い時間。

來はひたすら橋の下で膝を抱えていた。寒さと空腹で眠れないまま、あれから何も変わらない事態にぼーっとする



…次の瞬間。





「You're in the way a little!!」

「わぁ!?」

突然、積み上げていた木箱が動いたと思ったら険しい表情のおばさんに怒鳴られ、來は転がるように木箱の囲いから飛び出した。おばさんは尚も文句めいた口調でこちらを罵りながら、手にした木箱で來をがつがつと殴り付けてくる。

「い、痛っ!痛い!そっ、ソーリー!ベリー ソーリー!!」

恐らく、この木箱はそこら辺にあった物ではなくて彼女の物だったのだろう。そう察した來は英語で懸命に謝るものの、相手は怒りが収まらないのか攻撃も口撃も止まない。もう堪らず來はトートバッグを抱えると一目散に走り出した。女性も後を追いかけてきたが、ただの威嚇だったのかすぐにその気配は消える。しかし、來は振り返らず走り去った。

走って

走って

走って…

やがてその速度は弱まり、來ははぁはぁと荒い息を整えながらようやく立ち止まった。

「………うっ」

喉奥から込み上げる嗚咽を堪える。しかし高ぶる感情の波は収まらなくて、そのまま涙となって來の頬をぼろぼろに濡らした。

「うーっ、うぅーっ……ひぅ……!」

悔しくて、惨めで、虚しくて、腹立たしくて。嗚咽を堪えようと懸命になればなるほど、涙は溢れてくる。何が英国紳士だ。何が騎士道精神だ。何がジェントルマンだ。こんな最悪な国、大嫌い!早くおうちに帰りたい。もうこんな場所にいたくない。お母さん、お父さん。あやぴー、まこちー…

両親と親友の顔を思い出し、ぐずぐず鼻を鳴らしながらとぼとぼと力なく歩く。次第に闇夜に沈んでいく周囲と、夜が更けていくのを知らせるかのような街灯の明かりを肌で感じながら、來はふと顔を上げた。すぐ横には屋敷があって、立派な門構えから察するになかなかのお金持ちが住んでいるのだろうかと來はぼんやり思った。窓から漏れる暖かな明かりが、とても幸せそうに見える。

「………」

きっとこの屋敷に住んでる人は、こんな惨めな思いも空腹すぎて気持ち悪くなった事もないんだろう。絶望した事も、泣き叫びたいほど悲しい思いもせずに生きてきて、そしてそんな人間が存在しているとも知らず幸せな日々を過ごしているんだろう。

…來は屋敷を眺めながら勝手に想像する。寒くて空腹で傷だらけで涙を流す自分が、最高に惨めに思えた。そうやって無心に眺め続けていた來だったが、頭の芯がやがてぼーっと溶けていくような錯覚に襲われ、視界がみるみる霞んで……はっと気付いた時にはうつ伏せに倒れているところだった。昨夜から残る雪の白さが近い。



あー、

なんか

ヤバイかも



どこか他人事のように考えながらも、しかし來は動かなかった。いや、指先1つ動かす事が出来なかった。全身が鉛のように重たくて仕方がない。寒いとも感じない。あれだけがたがた震えていたのに、今は震えすらなく全身が静かだ。

そして、意識もまた自分の中に埋没していくように吸い込まれていく。急速に現実から遠ざかっていく感覚に、來はふふっと小さな笑い声を上げた。

あー、なんだ。そうだよ。何でそう思わなかったんたろう。夢だよ。これって夢なんだ。夢の中で寝るって、よく話に聞くじゃない。次に目が覚めたら自分の部屋のベッドだ。あー、焦ったぁ…リアリティーありすぎでホントかとおもったぁ…タイムワープなんてじっさいあるわけないし、ありえないし。おきたら…あやぴーとまこちーに、まじやばいゆめみたってはなししよ…



あー…、おでん、たべたいなぁ…



意識が闇に沈むと同時に視界も闇に覆われる。うつ伏せの小さな背中に、はらはらと静かに雪が舞い降りてきたのだった。



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