恋愛無関心症患者のカルテ
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2月某日、午後13時15分。空を覆う薄曇りは、太陽の光を微かに透かす。
御剣は、逃走したグループFの1人と、それを追跡する唯の2人を追い掛け、とあるビルの5階部分にある割れた窓から内部へと侵入した。
磨きぬかれた御剣の靴が、砂と埃だらけの廊下を、じゃりと踏み鳴らす。ここも廃墟のようで、御剣は素早く周囲を見回し、見失ってしまった2人の姿を探した。
後から冷静に思い返せば、無茶にも程がある追跡だった。スタート地点であるビル5階部分のでっぱりを走り抜けた後、4階建てのトタン屋根へ飛び降り、そこから幾つかの建築物へ飛び移って、ビルの外壁に設置されていた排水管を伝って5階のここへと登ったのだ。
1歩間違えれば大怪我…いや、命すら危うい経路。恐怖心が一切沸かなかったのは、無我夢中が成せた離れ業だ。
「………」
御剣は荒い呼吸のまま、耳を澄ます。姿は見えなくとも、静まり返った廃墟内ではバタバタと走り回る音が響き渡っていた。その音を頼りに、御剣が1歩足を踏み出した時だった。
ガァアアン!!
「っ!」
空気を切り裂く破裂音に、御剣は全身を凍りつかせる。紛れもなく銃声だ。男か、唯か…際限なく膨れ上がる嫌な予感に、御剣の全身が総毛立つ。整わない息のまま、御剣はその音に向かってがむしゃらに走り出した。
廊下を抜け、階段をいくつも登り…どれほど経っただろうか。御剣の耳に、恐怖に引き攣れた男の声が聞こえてきた。
やはり……あの銃声は。
御剣は舌打ちをする。理論と慎重を主とする御剣が、何も考えずに声が聞こえる部屋のドアを乱暴に開けた。
「やめろっ!!!」
全身で叫ぶ御剣。そこには、脛を抱えて壁際にうずくまる男と、男に銃をひたりと向けて真っ直ぐに立つ唯の姿があった。
*****
ガァアアン!!
「ひぎぃい!!!」
鼓膜をつんざく破裂音。男が悲鳴を上げると、もんどり打って床に転がった。その動きに同調するように、脛から吹き出る赤い液体が弧を描く。
打たれた男は、その箇所を手で押さえながらも這いずって移動する。カツカツと靴を踏み鳴らして近づく相手から少しでも遠ざかるために。
「や、や…やめてくれよぉ……殺さないでくれぇ」
這いずる先は無情にも壁で阻まれてしまい、男はカチカチと歯の根を震わせて相手に懇願した。
「も、もぉ逃げねぇよ。逃げねぇよぉ…逃げねぇからっ、頼む、殺さないでっ…」
「………」
涙も鼻水も垂れ流しながら、男は必死に相手に命乞いをする。相手……唯はその様子を冷めた目で見下ろしていた。先程撃った拳銃の先は、男から外さず。
動揺も、それどころか一切の感情すら見せない唯に、男は「ひぃい」と細く悲鳴を上げた。過ぎる恐怖に、その全身は痙攣のようにがたがたと大きく震えている。
「な、なぁ…日本の警官は、拳銃とか、使わねぇだろ…っ?撃ち殺すような事、しねぇだろ?…!?」
「………逮捕及び」
男の問いかけを受けて、唯が薄く呟く。
「逃走防止の為の発砲は認められています」
そう言って拳銃の後ろの突起…いわゆる撃鉄を親指で引き起こす。カチリと無機質な音が響いて、男は甲高い呼吸音を喉奥から絞り出した。
まばたきすらしない唯。まるで一枚絵のように動く素振りすら見せない彼女が、その瞬間唇を引き締めた時だった。
「やめろっ!!!」
バンッ!ドアが乱暴な力で開かれて悲鳴を上げる。男はびくりと肩を震わせてドアに注目したが、唯はちらりと視線を向けるだけですぐ男の方を見た。
「検事ですか。お疲れ様です」
「頼む!!助けてくれ!この女を止めてくれぇ!!」
「………銃を仕舞いたまえ、唯」
静かに呼吸を整えながら、御剣が命令する。唯は拳銃を握り締めたまま、それでも御剣を見ようともしない。
「聞こえないのか?銃を、仕舞うんだ」
「………」
「――…その男を、射殺するつもりかね?」
無言を貫く唯に、御剣は問いかける。その台詞に、男は「やめてくれぇ」と悲痛な叫び声を上げた。相変わらず顔色1つ変えない唯は、拳銃を男に向けたまま、口を開く。
「検事。貴方には関係ありません」
「射殺するのか?」
「………私は」
御剣の重ねる問いかけに、唯は薄く笑った。
「こんな瞬間を、待ち望んでいたのかもしれません。ずっと――…」
恍惚と呟く唯の人差し指が、引き金に掛る。キリッと引き絞られる金属音に、空間が凍りついていく。
「…止めろ」
「………」
「止めるんだ。唯」
「………」
重みを増す御剣の言葉。それでも唯に変化は見られない。御剣は、ぎりっと奥歯を噛んだ。
「止めるんだ――…ナギハラ!」
御剣がそう叫んだ瞬間。
唯の瞳が、驚愕を伴って大きく見開かれた。
「凪原唯……それが、君の本当の名前なのだろう?」
「………」
痛いほどの沈黙。呼吸する事すら許さない、張り詰めた緊張感。
唯が、ふっと息を吐いた。
「10年ぶりです。その苗字で呼ばれたのは……」
彼女の台詞に、御剣は眉間のシワを深くする。
自分が解いたロジックが、真実だった事を苦々しく思いながら。
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