そんな時はどうぞ紅茶を
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そして、それは同時に起こった。
「っ、あっ!!」
動揺か衝撃か。魔法瓶を持つ手がびくっと引き攣るように震え、次の瞬間、ポットへ注がれていたお湯が澪の左手へ当たったのだ。
紅茶を淹れる為に用意したお湯の温度は95度。そんな熱湯をまともに受けた左手は、ヤケドから逃れようとする反射でポットを離してしまった。
ゴトッ!
ガラス製とはいえ、厚手のそれは幸運にも割れず、重い音を響かせただけで済んだ。しかし…磨き抜かれた無垢のフローリングの上で無様に転がるポットからは、リーフとお湯が盛大にぶちまけられていた。
澪は、魔法瓶を持つ右手を震わせつつも、何とかそれをワゴンに置く。そしてその手で左手首を握り締めた。痛みと熱さに支配されたそれを、少しでも和らげるかのように。
「ちょっと…!」
「峰沢君!?」
色めき立つ女性の横をすり抜けて、御剣が慌てて飛び出す。そんな彼の様子に、女性は驚いたように目を丸くさせた。
「大丈夫か!?すぐに冷やさなければ…」
澪の傍に走り寄った御剣が、すぐさまその左腕を掴む。途端、澪の脳裏に溢れたのは裁判終了後の、夜の執務室での出来事だった。
呼吸すら奪いかねないほどの力を込めた、苦しく熱い抱擁。それを施した彼の腕が、自分の腕を掴んでいる……!
「やっ!!」
澪の胸の奥底から、ヤケド以上の熱が一瞬で全身を回る。その感覚に怯えた澪は、完全に無意識で御剣の手を振り払った。
「…!」
「……っ!?」
驚愕で固まる御剣と、それを信じられない表情で見つめる澪。信じられないのは彼ではなく、今さっき自分がとった行動。
どうしよう。
どうしよう…
もう、
もう私は……
「……峰沢、く」
「も、申し訳ありませんっ!冷やしてきます!お手洗い、借ります!」
御剣の呼び掛けに被せるように澪は叫ぶと、執務室のドアに体当たりする勢いで廊下へと飛び出した。
ドアを閉める手間すら惜しむように、澪は廊下を全速力で走る。背中に「峰沢君!」と御剣の声が飛んできたが、それからも逃げ出すように、澪は走った。
***
レストルーム…いわゆるトイレットルーム。
それの女性スペースにやってきた澪は、洗面台の蛇口を捻った。袖をまくった左手首を、ジャーっと勢い良く流れる水の中に突っ込む。
「………」
排水口にみるみる流れていく水を、澪はまばたきもせずに見つめていた…いや、ただその様を瞳の表面に映すだけで、認識はしていない。
今、澪の頭の中にあるもの…それは、驚愕に固まる御剣の顔だった。
「………」
じわりと、凍りついたようにまばたきすらしない瞳に、涙が滲む。
彼の事を考えるだけで、情緒が不安定になる。
彼の言葉の1つ1つに、自分がかき乱される。
仕草に、視線に、彼を取り巻く環境に。
自分が制御出来なくなる。
「………」
澪の頬を、一粒の涙がぽろっと零れる。
これが……これが、恋なのか?誰かを好きになると言う事なのか?
恋とは、好きになるという事は…もっと温かくて幸せな気持ちになるものではないのか?
じゃあこの気持ちは一体何なのか。自分はどこかおかしくなってしまったのだろうか。
「………う」
口の端から漏れそうになる嗚咽を懸命に堪えながら、澪は頭をゆるゆると振る。
このままじゃいけない。
このままじゃ、自分がダメになる。分からなくなる。
このまま……今のままでは、いけない――!
ガンガンと頭の中で鳴り響く警鐘を、澪は左手を冷やし続ける水音の中で、確かに聞いた。
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