そんな時はどうぞ紅茶を
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近づいてくる男に、片膝を付いていた御剣はゆっくりと立ち上がった。御剣も背の高い部類に入るが、近づいてきた男は彼の頭1つ分は高い。
「ム。イトノコギリ刑事か。何か分かったのか?」
「そうッスね。容疑者が浮上したッス」
糸鋸の思いがけない言葉に、2人の瞳が丸くなった。
「…早いな。目撃者がいたのか?」
「現場の状況から、判断したッス」
御剣の問いかけにそう答えた糸鋸は、助手席に座っている澪を見下ろした。
「えっと…このコが、第一発見者の?」
「あぁ。峰沢澪だ…峰沢君、この男はイトノコギリ刑事。私の部下になる」
「…初めまして」
紹介され、澪は小さく頭を下げて挨拶をする。糸鋸は「うッス」と呟くと、対応に困ったようにぼりぼりと後頭部を掻いた。
「…アンタ、なんで御剣検事殿のスーツを着てるんスか?」
「え……」
「……震えていたから、貸したのだ」
糸鋸の質問に戸惑う澪を見て、御剣は思わずムッとして答える。
「このコは、御剣検事殿の――…彼女ッスか?」
「違う!!」
「違います!!」
瞬時に真っ赤になった2人は、ほぼ同時に勢い良くきっぱりと否定する。糸鋸は「うおッス」と驚いて1歩後ろに下がった。
「君の根拠のないあてずっぽうな推測には、ほとほと呆れかえるばかりだ!第一、その推測は彼女に失礼だろう!」
「す、すんませんッス!!」
顔を赤らめたまま、糸鋸にずびしと人差し指を突きつける御剣。「その…気にしてないですよ」という澪の弱々しい呟きは届かない。
ダラダラと流れる冷や汗をぬぐって、糸鋸は話を続けた。
「しかし…御剣検事殿の知り合い、なんスよね?」
「ム…そうだ」
「………」
その言葉を聞いた糸鋸は、何とも困ったように顔を顰める。御剣もまた眉間にシワを寄せた。
「どうかしたのか?何か問題でもあるのか?」
「えっと……ちょっと、このコに質問してもいいッスか?」
「………」
御剣は、"どうする?"と表情で澪を伺う。察した澪は「はい」と了承した。
「んじゃ聞くッス……御剣検事殿にも聞いたッスけど、アンタが鍵を開けて中に入って死体を発見…っていう流れなんッスよね?」
「………はい」
"死体"の単語で蘇った、赤い畳に沈むうつぶせの男を思い出して、澪は表情を暗くして頷いた。
「鍵は、アンタが帰って開けるまで、確かに掛かってたッスね?」
「……はい」
ノブに鍵を差し込んで回した時、確かに"カチャン"と開く音と手応えがしたのを覚えている。あの時まで、鍵は確かに掛かっていた。
「……何を聞いている。イトノコギリ刑事」
何かを悟ったのか、御剣が話に割って入る。その表情は静かな怒りに満ちていて、見上げた澪も傍にいた糸鋸も、ぎょっとして彼を見た。
糸鋸は、観念したように口を開いた。
「…密室なんッス」
「……なんだと?」
「ベランダの窓も鍵か掛かってたッス。現場は角部屋じゃないッスから、侵入経路は玄関かその窓だけッス。そこに出入り出来る人物がそのコだけなら、容疑者は…」
「君は…貴様はそれだけの情報で容疑者を特定したつもりなのか!!!」
「!?」
現場全体を震わせるほどの怒号が、御剣から飛ぶ。凄まじい迫力に、周辺が一気にシンと静まり返った。
竦み上がりそうな程に恐ろしい形相の御剣に、糸鋸はあたふたする。
「ち、違うッス!いくらなんでも、それだけで決めないッス!部屋の押入れから、血まみれの服が出てきたッス!そのコが今着てる服と同じ服ッス!」
「…ガイシャの血だとでも言いたいのか!?」
「り、量からしてその可能性が高いッス。今、鑑識に回して…」
「可能性だと!?バカも休み休み言え!!貴様の来月の給与は、査定する手間もいらんな!」
「し、死体に刺さってる包丁からも、このコの指紋が出たッス〜。どっちにしろ、警察で事情は聞かないと…!」
ほとんど泣き声に近い糸鋸の言葉に、とうとう御剣の手が伸びて彼の胸ぐらを掴み上げた。
「戯言はほどほどにしておきたまえイトノコギリ刑事!彼女は部屋を荒らされた被害者だ!」
「で、ですが御剣検事ど…む、ぐっ!」
「まだ寝ぼけたセリフが出てくるのか!?これ以上私を失望させるなイトノコギリ刑事!」
激昂したまま胸ぐらを掴んで乱暴に揺さぶる御剣の手に、そっと小さな手が重なる。
「!」
はっと我に返って振り向く御剣。澪がいつの間にか立ち上がって、糸鋸の胸ぐらを締め上げる彼の手に触れていた。
「……落ち着いてください。御剣さん」
「………」
御剣は肩を大きく上下させ、荒い呼吸のまま澪を見る。
「…私、行きます。行って、刑事さんにちゃんと説明します」
「………な、にを…言ってるんだ。君は犯人では――!」
「もちろん、犯人なんかじゃないです。でも、話さないとそれも分からないままなんですよね?」
「峰沢君!」
「私は大丈夫です。だから…刑事さんを許してあげてください」
「………」
「…御剣さん」
「………っ」
御剣は、糸鋸を突き飛ばすように離した。コートの襟元を正しながら、「マジで殺されるかと思ったッス」と涙を流す糸鋸である。
「あの…刑事さん、今から警察に行けばいいんですか?」
「そうしてくれると、ありがたいッス」
澪は「分かりました」と糸鋸に告げると、徐に肩に羽織っていたスーツを脱いで御剣へ差し出した。
「これ、お返しします」
「………」
「…今まで、ありがとうございました」
「………」
苦しげな表情でスーツを見つめていた御剣は、長い沈黙を経てそれを手に取った。
「…じゃ、こっちッス」
「………」
糸鋸の先導で、澪がパトカーへ向かって歩いていく。途中、1度だけ御剣を振り返ると、小さく頭を下げて立ち去った。
「………」
御剣は、まばたきもせずに見つめる。
糸鋸が開けたドアに、澪が躊躇いもなく乗り込む。
ドアが閉まる。
そして……サイレンを鳴らさず、赤色灯だけを周囲に散らしながら走り去っていった。
「………くそ!」
ガン!
一言吐き捨てて、御剣は右手のひらを思いっきり自分の車の天井付近に叩きつけた。
「……くそ…っ!」
叩きつけた手のひらをぎゅっと拳に握り締めると、そこに自分の額を押し付けて目を閉じた。身体の中で暴れまわる荒波のような激情を、全力で押し止める。
「――…」
車に顔を伏せた格好でふと目を開ける。自分の左手には、先程澪から返してもらった赤いスーツが、くったりと握られていた。
「……!」
スーツを自分の胸に、思い切り掻き抱く。
おぼろげだが、彼女の匂いがしたような気がした。
「澪――!」
血を吐くような思いで、御剣はその名を口にした。
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