拍手ログ

□3分クッキング(終)
1ページ/1ページ

 彼女がボクに本を手渡してきた。
 雑誌ではない、分厚い科学の専門書だ。
 これに集中していて下さい、という意味だろう。
「ありがとう」と受け取ってページを開けば、満足したような安心したような足取りで彼女はキッチンへと消えて行った。

 調理の途中でアドバイスする事はボクにしてみたら親切のつもりだったのだが、彼女には迷惑なのだろう。

 一流の料理人として日々切磋琢磨する者…例えば小松君あたりなら、調理に関するアドバイスを拒むはずがない。

 自身より上の技術を持つ者からの助言、またそうでなくても第三者からの客観的な視点はむしろ喉から手が出る程求めているものに違いないからだ。
 …つまり、彼女は別にそこまで料理が上達しなくても良いと開き直っている訳で、曲がりなりにも恋人であるボクに作る料理がボチボチで良いと思っている訳で、それに関しては美食屋という肩書きを持つ者として若干のショックは否めないのだが、今の所それはそう大した問題にはなっていない。
 問題なのは調理そのものよりもその合間に聞こえてくる歌だ。

 しばらくハミングをしていた彼女がいつものように楽しげに歌い出す。

「あ〜な〜た♪今夜は何〜を召し上が〜りますか〜? 昼下が〜り クッキ〜ング♪」

 …参った

 聞き流そうとしても自然と耳に入ってくる歌詞に、思わず喉の奥で唸り声を上げる。
 これを聞きながら本に集中できる奴がいるんだろうか?

お得意のハンバーグ・オムレツ・麻婆豆腐だけじゃ届かない
わたしの真心クッキング
時々は、あれこれしどろもどろに思い出しながら
なつかしいおふくろの味
「ク〜ッキング〜♪」

 愛情のスパイス、なんて陳腐な表現は、結局は料理に対する情熱が生み出した調理過程に対する真剣さや誠実さを意味するものであって、実際にそういった感情が料理の味に直線的に作用する訳がない。そう思っていた自分はまだ世界を知らなかっただけなのか。

「ク〜ッキング♪ ク〜ッキング♪ ク〜ッキング せっせせっせ♪ あなたにっ届け♪恋の味〜♪」

 キッチンからチラッとこちらを覗いた彼女は、ソファに深く腰掛けて上を向いた顔に本を置いているボクに気付いたのか、その歌声を囁き声に落とす。
 もう1年以上一緒に暮らしているのに、ボクがこんな格好でうたた寝などしない事をまだ彼女は知らないのだろうか?

「ク〜ッキング♪ ク〜ッキング♪ ク〜ッキング♪ せっせせっせ♪」
 うん、でも今はそれを良しとしよう。
 少し赤くなってしまった顔を持て余している自分に気付かれなくて、むしろラッキーだと考えるべきだ。

「あなたに届け〜♪ふ〜♪恋のあじ〜♪」


「できた〜♪」

 小さな声で、しかしノリノリにできたと宣言したのに、様子を伺う限りではまだ料理は完成していない。
 きっとそれも歌の一部だったんだろう。
 そういう実際の行程と歌のズレを指摘すると、彼女はちょっと呆れたような顔をしてボクの顔をまじまじと眺める。

 そしてヤレヤレといった顔でまた続きを歌い始める。

 ここら辺の価値観に関して、ボク達の間には決定的な溝があり、それがなくなる事はまずないんだろう。
 でも、そんな溝は互いに手を伸ばせば簡単に繋げる距離でしかないのも確かで、ならまぁ別にいいかと思えるようになったのは間違いなく彼女の影響なんだろうな。

 キッチンからハンバーグの香りが漂ってくる。

 香りだけで分かるのは果たして幸か不幸か、まず間違いなくハンバーグは少し焦げてしまっている。

 きっと彼女は焦げてる面を下に隠して、しれっとした顔でにっこりと笑うんだろう。

 それに気付かない振りをしてナイフとフォークを差し入れるべきが、透視能力でも使ったのかと彼女を驚かせる発言をしてみせるべきか。

さて、どちらにしよう?
 なんにしても「届け」と言われた以上は受け取らなければ男がすたるというものだ。

 彼女の作った恋の味がほろ苦いのなら、まぁそれはそれで納得かな。
 なんて思うボクの症状は正に

「末期だな」

「真っ黄?何言ってるんですか?ネオトマトはいつだって真っ赤ですよ?」

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ