IGO大学体育会美食道部

□弥生のレシピ
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運転席に乗り込み、エンジンをかける

その状態で固まること10秒

ココははっと意識を取り戻し、携帯を取り出して番号を呼び出しコールした。

そのまま何度か鳴り続けるコール音を聞いてる内にまた気付けば寝てしまっていた彼は、再びはっと液晶を確認する。

応答された形跡はない

それを確認して、ココは溜め息を1つ吐いてから、気合いを入れ直してハンドルを握った。


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いくら体育会系で鍛えた体とはいえ、3日連続の徹夜は相当堪えた

こんな状態でようやく解放され、これで事故ったら自己責任なのだから、組織とは実に恐ろしい

それでも、今死ぬ訳には絶対にいかない

家では、可愛い妻とまだ見ぬ我が子が家長の帰宅を待っているのだ。

そう遠くない距離とはいえ、時々フッと遠ざかる意識に身を任せてしまわぬよう、ココは何度もそう頭の中で繰り返しながら、ハンドルを殊更強く握り締めた。



※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※



漁に出た船が身元不明の男性の遺体を発見したのは3日前の早朝だった。


管轄区内に海があるかないかで仕事は大きく変わってくるぞ


そう教えてくれた上司の言葉はどこまでも真実だ

大抵、自ら身を海に投げ出す者はその最後の痕跡を敢えてどこかに残そうとする。

住居に入る訳でもないのに直前に靴を脱ぎ、時にはそこに手紙を忍ばせる

それが先に発見されてから捜索が開始される事もあれば、先に体が見付かって、付近を捜索してみたら遺留品が見付かるというパターンもある。

しかし今回は珍しく、痕跡がどこにも残っていなかった。


事故なのか、故意なのか、事件なのか


近辺の捜索、監視カメラの確認、携行品のチェック

同時進行で起きる他の事件を捌きながら必死に探すもなかなか糸口は見つからない。

彼の同僚は「こんな時こそお前の千里眼だ」なんて無責任な事を言っていたがそんなもの、もし本当に持っていたらもっと別の事に使うよ、と

ココは真剣に言ってしまいそうな位には、早く家に帰りたくて仕方がなかった。




遺留品の眼鏡のメーカーから所有者の特定を試みようとしたココの機転はしかし、千里眼と言っても過言ではないものだった。

大量生産品のように見えて、実は特殊な加工が施されていたそれが遺体の胸ポケットに忍ばされていたのは、彼からの控え目なメッセージだったのだろうか

メーカーに問い合わせ、顧客データに照会してもらったところ、該当する加工を施した眼鏡を所有するのは全国で数十名、県内に至っては僅か1名だった



そこまでは良かったんだ



カーブを必死で曲がりながら、ココは途切れそうな意識に頭を振る。


あの時、電話で確認せずに直接家に行っていれば…いや
そんな余裕は誰にもなかった


引っ掛かってしまった信号の赤に負けてしまいそうで、仕方なく彼は寒空の下、窓を全開にした。




※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※



電話で男性の家に連絡を取ってみたところ、彼は年老いた母親と二人暮らしだった。

身元不明の遺体の件を話し、念の為にと息子の消息を尋ねられた母親ははっきりと答える。

「彼なら今朝も元気に仕事へ行きましたよ」と。

そう答える彼女が認知症を患っていると誰も疑う事をしなかった結果、捜査は振り出しに戻り、その後3日経ってようやく事件は解決した。


それでも、この程度、明日の朝刊にすら載らない、些細な事件だ


世間を賑わす事件など、毎日繰り返される何千件の内のほんの一握りに過ぎない。

そして、だからと言って事件の重要性でやる気を出したり引っ込めたりするなど絶対に許されないのだ。



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なんとか帰宅に成功し、ココはほっと胸を撫で下ろす。

深夜を回り明かりの消えた世界の中で、玄関に灯る僅かな光の暖かさに、それだけで満足して力尽きてしまいそうになる。



…遺体を引き渡された母親は、驚く程静かに、丁寧に「ご迷惑をおかけしました」と深く腰を折った。


彼女の症状はかなり進行しているとケアマネージャーは言っていた。
普段ははっきりとした受け答えをする事すら困難になっているらしい。

そんな彼女が、帰らぬ我が子に動揺しながらもしっかりしなければと我が身を奮い立たせた結果があの応対だったのだとしたら、それは誰にも攻める事はできない。


子を思う、母の気持ちが医学を凌駕する


『母親』とは、そこまで違う存在なのか、と


改めて感心しながらココは玄関の鍵を開けた。



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何とか事件も解決に向かい、夕方には帰れそうだとメールを打とうか、いや、そんな暇があったら1分1秒でも早く出発しようと、

そう考えていた矢先、運悪く次の事件が入ってしまった。

痴話喧嘩の110番だ

よりによって自分が席を立とうとしたその瞬間に通報が入るなんて、と思いっきり顔に出したココを誰も責めはしない

責めはしないが「もう今日は帰って良いぞ」と言ってくれる程の余裕はどこの誰にもなく、結局20分後、彼は民家で泣き叫ぶ女性をなだめる事となった。



あなたにはこんな事、日常茶飯事なのかもしれないけど


髪を振り乱した女性は、ポーカーフェイスを努めながらもココの表情に何か感じるものがあったのか

私にとっては人生を左右する一大事なんですよ、と

バカにしないでください、と

少し離れた場所で別の刑事から事情聴取を受けている男性ではなくココに向かってそう叫んだ。


そうです、日常茶飯事です


とは絶対に言えないが、確かにそうだな、とココは正直に思ってしまう。


女性は日頃の鬱憤を晴らすかのように「落ち着け落ち着けって、あなたに何が分かるって言うの?」だの「私はいいから早くあの男を逮捕して、それで刑務所に一生入れて下さい」だの叫び続ける。

逮捕してから裁判までどれだけの仕事が間にあるかも知らず、幸せな事だ、と思いながらもとにかく聞き役に徹していれば、小一時間もする内に男も女も落ち着きを取り戻す。

そしてその後、相手を傷害罪で訴えるかと問われれば、そんな事態には滅多にならない。和解で示談成立となるのがほとんどのパターンだ。




…ボクも、妻と喧嘩をしてしまってるんですよ



それで、もう3日も家に戻れていないんですよ




『いち』を2回と『ゼロ』を1回

受話器を取り上げピッポッパとダイヤルすれば、どんな話でも優しく聞いてくれる人がいる

この国は本当に素晴らしい

自分がそのサービスを利用できないのが悔やまれてならないと、その晩ココは生まれて初めて真剣にそう思った。




※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※


「ただいま」

小さな声でそう言いながら引き戸を開け、靴を脱ぐココに「おかえりなさい」と声がかけられる。

「起きてたのかい?」

「いえ、たまたま喉が乾いたんで起きたところだったんです」

驚いてそう尋ねるココに、彼女ー亜弥はちょっと笑ってそう答えた。

「食事、どうします?」

朝も昼も、晩だって食べる余裕はなかったココの鞄の中には差し入れのサンドイッチやらパンやらが詰め込まれている。


しかし、今食べたら調子を壊してしまいそうだ。


「明日の朝で良いよ。軽くシャワーを浴びるから、君はもう休んでおいで」


「はい…」と何か言いたげな彼女とゆっくり時間を過ごしたいのはやまやまだが、さすがにもう限界だ。

本当はこのままベッドへダイブしてしまいたいところだが、死体とまではいかなくても、社会の底辺に蠢く、どろどろしたものに触れていたこの体を、彼女の近くに横たえるのはどうしても嫌だった。





ココは途切れ途切れになる意識でなんとかシャワーを浴びる事に成功する。


頭を乾かしながらテレビをつけ、久しぶりにニュース番組を見たら警察の不祥事が特集されていて、思わず電源ボタンを押しそうになり、しかしそこで表示されていた日付に今日がホワイトデーだとココは気付く。


しまった


頭を乾かすポーズでココの動きが止まった。


仲直りの絶好のチャンスなのに、何も準備できていない


そして今更ながら焦り始める。


明日は…いや、休ませてもらえるのは午前中だけだろう

今からギリギリまで睡眠をとって、ひと度職場に足を踏み入れれば、次いつ解放されるかは誰にも分からない


となれば、例え間に合わなくても次の帰宅時にするしかないか…


色々と覚束無い頭で考えてはみたものの、現時点でそれが一番最善の対応だという結論に至り、ココは己の不甲斐なさに一つ大きな溜め息をついた。



深く吐いて、次に息を吸って、そこでふと、爽やかな香りに気が付いたココの視線がテーブルへと引き寄せられる。


見れば、小さなお盆にティーカップが乗せられていた。


ハーブティーの乗せられたソーサーには小さなジンジャークッキーが1枚


そこに、ピンクのチョコペンでハートのマーク




あぁ


ココはもう一度溜め息をつく


今度は幸せな溜め息だ


世の中には、毎日毎晩110番をしなければ夫婦の仲も修復できないような人達が溢れかえっているけれど


ほら、やっぱりボクらは他の奴らとは違うんだ


可愛らしい仲直りのサインに疲れも吹き飛び、そっと寝室、亜弥の待つベッドに入ると、すっかり寝入っている彼女のお腹をココはそっと撫でてみた。




ぽこん



「っ!」



「い、今」


「…ん…どうしました?」


「蹴った、よ」


「蹴りますよー。ていうか毎日蹴りまくりですよ。蹴りの威力は父親譲りですね」


「でも、ボクが触ってる時に蹴ったんだ」


そう言ってココが驚きに放心状態になりながら彼女の膨らみつつある腹部を撫でていると、不意に亜弥が呟いた。


「…生きてますよね?」


「…うん」


ココは素直にそう答える。


「これは『命』なんです」


「…そうだね」


そしてもう一度、ゆるりとお腹を撫でてから、その手をそっと亜弥の肩に回し、そこに鼻先を寄せる。


「まぁ、この間の事は勘弁してあげましょう…おやすみなさい」


甘えるようなその仕草を受け止めて、亜弥が柔らかく「お疲れさまでした」と囁いた。



「…おやすみ」


優しい言葉と、暖かいぬくもりに包まれて、次の瞬間

ココの意識は一瞬で安らかな世界へと旅立って行った。
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