IGO大学体育会美食道部
□弥生のレシピ
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砂漠地帯の小さな町
砂埃を上げて古びた車がガタガタと走る通りの一角にその店はあった。
コンクリートブロックを積み重ねて作られたシンプルな長方形の空間には、埃まみれのプラスチックチェアと日本では型落ちも良いところのデスクトップが何台か置かれている。
居心地の良い椅子もない、ドリンクのサービスもない、日本とは大違いのネットカフェ内では、ラジオからエキゾチックな音楽が流れ、店長はそれを瞑目して聞きながら、半分夢の世界へ飛び立っていた。
「Hey,(おい)」
ふと呼ばれ、彼は渋々片目を開ける。
そして次の瞬間飛び上がって身構えた。
そこには身の丈2メートルを優に越す、しかも顔面は醜く切り裂かれ、剥き出しの臼歯が丸見えになった大男がこちらを睨み下ろしていたのだ。
男が、すっと右手を上げ、人差し指を1本立ち上げる。
「y…yes,sir!(は、はいぃ!)」
店長はすぐさま引き出しから100ドル札を1枚取り出しカウンターに置いた。
無言でそれを見下ろしてから、大男は一言呟く。
「Don't make fun of me.(チョーシに乗るなよ)」
ひいぃ、と
引きつった声を上げた店長がもう1枚ドル札に手を伸ばした瞬間
「One hour, please.(1時間でお願いします)」
ゼブラは改めてそう注文した。
劣化しかけたプラスチックの椅子をギシギシ言わせながら座り、パソコンを立ち上げてメールのチェックをする。
自分専用のラップトップを持ち歩くような面倒な事をゼブラはしない
携行するのはカメラ1つで十分だ
大体、こんな環境の中でいちいち精密機械を思いやりながら活動するなんて面倒くさい事を彼がするはずもない。
チョーシに乗って壊れるパソコンに苛ついて止めを刺す暇があったらこうしてネットカフェを活用する方が自分に合っている、と
意外にも彼は自分の事をよく理解していた。
ネット上にあるメールのフォルダを開ければ、案の定そこには大学の後輩からの新着メールがあった。
大きな手にはまるで釣り合わないマウスを操作してメールを開き、内容を一読する
「…あぁ!?」
思わず漏れた声に、店の隅へ避難していた店長が再び引きつった声を出した。
気付けば他の客は皆姿を消している。
「…ココの野郎とケンカしただとぉ?あいつら、チョーシに乗りやがって」
思わずそう呟いた瞬間、ゼブラの脳裏に先日出会った少女の横顔がハッキリと甦った。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
難民キャンプで暮らす子供たちに、一目祖国を見せてあげたい
そんな企画を立ち上げたNGOグループのとある医師に、その同行を依頼されたのはもう1週間前の事だ
以前から、国境付近では検問が何ヵ所も設置され、賄賂が横行するこの地帯でそこは憲兵達にとって絶好の小遣い稼ぎの場所になっている。
お偉いさんのその日の気分、またその日の情勢ですべてが決まるそこでは、どんなにしち面倒くさい書類も何の意味も成さない、まさに無法地帯だ。
たとえ何ヵ月も前から企画していたとしても、運が悪ければ途中で引き返して来なければならない、そんなバス旅行
マイクロバスに子供たちを乗せて、少しだけ国境に近付き、故郷を遠くから眺めるだけの事になぜそこまでこだわろうとするのか、そんな行為に何があるのか、ゼブラには分からなかったが、何か良い被写体が見付かればと同行を了解した。
当日、バスに乗り込んだ少年少女は皆静かだった。
日本の子供たちのように小旅行にはしゃぐ様子などどこにもない。
皆、目的地まで行けない可能性がある事を知っていたのだ。
だからこそ、下手に喜んで、企画が失敗に終わった時にスタッフが申し訳ない思いをしなくてすむ様、敢えて無関心な振りをしているのだ。
…チョーシに乗ったガキ共だ
ゼブラはチッと舌打ちをして、一番前の席に座った。
予定通りの時刻に出発し、バスは何ヵ所かの検問を通り抜ける
ゼブラの顔が効いたのか、今日は情勢が安定していたのか、はたまた憲兵の機嫌が良かっただけなのか
バスは思ったよりもスムーズに難所を突破していった。
しばらく行くと、引率のスタッフが「あそこだよ」と一方を指差す。
特に景色が変わった訳ではない。
相変わらず、窓の外には砂に囲まれた世界しか存在していない。
そして子供たちは誰も歓声を上げようとしなかった。
しかし、ふと振り向いたゼブラはある少女の顔に息を飲む
年の頃12,3だろうか?頬杖をついて窓の外を眺める彼女は、物心付いた時には既に難民キャンプで暮らしていたそうだ。
故に、彼女には祖国の記憶がない。
その彼女が、静かに外の景色を見つめていた。
一見無反応にも見えるその表情の、しかし瞳の秘めた輝きにゼブラは釘付けになる。
それは、静かな、しかし決意を込めた瞳だった。
私は愛す、と
まだ見ぬ我が子に愛を宣言する母親のような、深く強い決意を込めた瞳
たとえ祖国を知らなくても
『平和』が何かなんて実感できた事がなくても
それでも、私はそれを愛します
そう決意する
その意思の崇高さに思わずゼブラはシャッターを切る。
ファインダーを構え、敢えて彼女の視線の先は写さない。
一見するとただ車窓を眺めているだけのこの少女の、瞳に写る景色が、本当はどう映っているのか
それを確認する事は誰にもできない
その景色は彼女だけのものだ
そして、それを捉える事など永遠にできないのだとしたら、自分達ジャーナリストの価値とは一体何なのか
ゼブラはカメラを見つめたまま、しばし感慨に耽った。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
「ったく」
それに比べてこいつと来たら
ゼブラは思わずマウスを握り潰してしまいそうになり、慌てて手の力を緩める
よく見れば、メッセージの送信時間は真夜中だ
「妊婦のクセに夜更かしたぁ、どこまでチョーシに乗ってんだこいつは?」
意味不明の日本語で唸る彼の台詞が、自分に対する呪いの言葉でないことを店長は必死に神に祈る
しかし、次の瞬間ゼブラの瞳がふっと弛緩した。
何一つ不自由ない環境で、夏には新しい命に恵まれる予定で、それでも些細な事で一喜一憂する彼女
自分のルーツも知らぬまま、知りもしない平和を愛する事を課せられて、それでも健気に瞳をそらさない少女
同じ地球に、こんなにも異なる世界がある
そして、その差がなくなる日などきっと永遠に来ないのだろう
人はどんなに恵まれても現状に不満を抱き、悩み、苦しみ、そして時々ささやかな幸せを感じながら短い一生を終えていく。
それをこの世界は延々と繰り返すのだ
そして、だからこそ世界はこんなにも美しい
根無し草のように世界中をフラフラと回り、様々な価値観に出会い、自ら望んだ行為にそれでも時に押し潰されそうになる。
そんな彼を、下らない1通のメールが元の場所へと連れ戻す。
ふと気付けば、1時間が経過しようとしていた
ゼブラは手早くそのメールに返信すると、リュックを右肩に担いで街の雑踏の中へと戻って行った。
『男ってのはな、謝れねぇ生き物なんだ。分かってやれ。
謝りたくねぇんじゃねぇぞ?
下らねぇ意地とプライドが邪魔して出来ねぇんだ。
そういう時はそっと女の方からサインを送ってやれ。
オムライスだ。別にオムレツでも良い。
その上にケチャップで「ゴメンネ」って書いて、そっと晩飯の時に出してやりゃそれで終わるんだよ。
別にハンバーグにハートマークだけでもいいんだ
要はサインを送ってやれって事だ。
いいな?変な意地張るんじゃねぇぞ。
あと、夜中に起きてメールなんぞしてんじゃねぇよ
妊婦は夜10時までには就寝しとけ、良いな?
チョーシに乗るなよ
◯月◯日 ◯◯市のネットカフェにて ゼブラ』