IGO大学体育会美食道部
□霜月の溜め息
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ココは、すっかり冷たくなった夜の空気に冬の訪れを感じながら、早足にエントランスをくぐり抜ける。
寒さから逃げている訳ではない。
暑かろうが、寒かろうが、何があろうと、彼は常に家路を急ぐのだ。
彼の喉元まで、もうあの台詞が上がって来ている。
今日は先に言おうかな?
自分の声を聞いて、それから嬉しそうに微笑む彼女の表情の変化は筆舌に尽くし難い愛らしさだ。
あぁ、でも、彼女の声を先に聞くのも捨て難い。
扉を開けて、全神経を彼女に集中させて、その一言が紡がれるのを待つ一時は何ものにも代え難い。
そんな、がたいがたいと論じながら玄関のドアを開けたココは、彼女の出迎えがない事にちょっとがっかりする。
風呂場から、水の流れる音がする。
まだ夜の冷気を纏ったままの姿で音の源へと向かいながら、なる程、これはこれで得『がたい』シチュエーションだ、とココは頬を緩ませた。
浴室の扉をそっと開けると、彼女はちょうどこちらに背を向けて座り込み、下を向いてシャンプーを流していた。
その背中をつんつんとつついてみる。
途端に浴室に響き渡る「うひゃあ?!」という絶叫に、自分の手の冷たさをココは今更実感した。
うっかり目に泡が入った彼女が盛大にパニクる様子を、ココはしゃがんで見つめながら敢えて何も言葉を発しない。
「ココさんですよね?!ココさんですよね!?ていうかココさんじゃなかったらどうしたら良いですか?」なんて叫びながら何とか顔を拭いて目を開けた彼女に、ココはいつもとは少し違った言葉を投げかけた。
「メール」
「え?」
「まだ見てないみたいだね」
「あ、すみません。何かありましたか?」
「いや、大した用じゃなかったし、間に合ったから良いんだ」
「え?」
「『お風呂、一緒に入りたいから待ってて』って送ってたんだ」
「!?」
「すぐ脱ぐから」
「あ、いや、その」
「あ、さっきつついたのは『ただいま』の代わりだよ」
「…おかえりなさい…」
それからすぐに支度を済ませたココが再び浴室のドアを開ければ、亜弥は茹で蛸みたいな顔になっていた。
―――――――――――
風呂から上がり、食事を済ませ、彼女を膝の間に置いてこたつに入る。
それからテレビを付けて今日1日の時事問題を確認するのが、冬を間近に控えた最近の夜の過ごし方だ。
膝の間にすっぽりと収まった彼女は楽しそうにみかんを剥いている。
柑橘類の爽やかな香りと共に、亜弥の洗い立ての髪からも、首筋からも、甘い香りが立ち上る。
彼女がこの部屋で使うアメニティは、実は全てココが揃えた物だ。
そんなもの、ココのものをちょっと借りればそれで良いという彼女の主張はきれいに無視して、厳選したこだわりのそれをココはさり気なく配置する。
自分の気に入った香りのそれらを、彼女は何の疑問も抱かずに「ありがとうございます」と使い、その香りを身に纏う。
ハンドソープまで別にして、彼女の体中から自分好みの香りしかしないように仕上げて、
そうして、そんな彼女を後ろから抱き締め、ほのかに立ち上がる甘い香りを深く吸い込めば、1日の疲れなど全て吹き飛んでしまう。
最高のアロマテラピーだ
どんなに高価なキャンドルを部屋に灯すよりも、これが一番贅沢だと思うのは自分だけなのだろうか?
香り袋を枕元にしのばせるよりも、彼女の首筋に鼻をうずめて眠る方が何倍も癒されるのは自分だけなのだろうか?
ココは亜弥の頬にかかる半乾きの髪を耳にかけてやりながら、真剣に考察する。
ただのソープに含まれる香料を、アロマの香りへと進化させる彼女の体からは、もしかしてフィトンチットが出ているのかもしれないと最近本気で疑っている自分がいるのだが、一度具体的に検証をしてみても良いかもしれないな。
そんな事を考えながらもう一度深く呼吸をしたココに、亜弥が「あ、ダメですよ」と注意する。
「ため息ついたら幸せが逃げちゃうんですよ?」
「そう?(今のがため息に聞こえたのか…ていうかボクの幸せはキミなんだから)逃げられるのは困るな」
「そういう時はもう1回吸い込んだら良いらしいですよ?」
「何をだい?」
「そりゃ、逃がしてしまった幸せを、でしょう?」
「ボクは逃がしてないよ?」
「へ?なんの話ですか?」
「幸せの話だ」
「あ〜。…みかん、食べます?」
だめだ、さっぱり分からない、と亜弥は早々に思考を放棄する。
まぁ、今はこうして、彼に後ろから優しく抱き留められ頬を寄せられて幸せを噛みしめているのだ。
訳の分からない話し合いはまた次の機会にしても良いだろう。
彼も幸せを逃してはないらしいし、それが何よりだ。
亜弥は剥いたみかんを一房ココの口に放り込んだ。