IGO大学体育会美食道部
□如月の境界線
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もちろん、さすがのココもデスクトップの一面に彼女の写真を貼っていた訳ではない。
あの日、みかんを撮るフリをして実は彼女の顔を中心にしたアングルで撮った写真は、更に彼女の部分だけを小さくトリミングして、画面右下にさり気なく置かれていた。
データ管理は専らココの役割で、この研究室で一番長い時間を過ごすのがこのパソコンの前だったから、ここにその写真はあったのだ。
ここにこの写真がある事を既に知っている様子から、彼が事前にこのパソコンをいじっていた事は明白である。
その上で、あくまでもポーカーフェイスを保ちながら自然さを装ってしれっと質問してくるこの男に、ココの警戒心はマックスに跳ね上がる。
大体「this」という表現が気に入らない。
もちろん、そういった表現をするシチュエーションも多々ある事は理解しているが、この場合においては若干の故意とほんの僅かな悪意を感じてしまう。
ココは、その切れ長の瞳をすっと据わらせると、彼の方を向き簡潔に答えた。
「No, "this"」
(いや、『これ』は)
敢えて同じ単語を使うのはココなりの趣向返しだ
「is my life.」
(ボクのすべてだ)
男の目が面白そうに見開かれる。
ココは当然本気だ。
彼女が卒業して、更に2年経てばこの"l"が"w"に変わる。
それはそう遠い未来の話ではないし、そうなった後もココにとってどちらの言葉も真実だ。
「…Interesting.」
(…ほう)
男がニヤリと笑う。
知らず、ココの額に汗がにじんだ。
(この男、相当できる)
その上、今彼の瞳には明らかに好戦的な光が見え隠れしている。
まさかそんなはずはないとは思うが、もし今ここでやり合う事になった場合、まず間違いなくココに勝ち目はない。
そんな男の間合いの中で、背中を見せて座り込んでいるという今のシチュエーションはもの凄く危険だと分かってはいても、今のココは一歩も引く事ができない。
いや、したくない。
不気味な均衡がしばらく続いた次の瞬間、
「スター准教授殿!スター准教授殿!おぉ、こちらにいらっしゃいましたか!」
滅多に走る事のないジョージョーが必死に息を切らせて入室してきた。
「なんじゃ、お主もおったのか。何か失礼はありませんでしたか?」
「イエ、今チョウド、色々ト教エテモラッテイタトコロデス」
スター准教授と呼ばれた男は、ココを見下ろしていた前屈みの姿勢から腰を伸ばし、ジョージョーの方を向いた。
(日本語…)
ココは二重に揶揄されていた事に苛立ちを覚えながら、素早く彼女の画像データをパソコンから削除する。
「いかがですかな?この研究室は?お気に召しましたか?」
「エエ、トテモ」
ジョージョーは事前に送られてきた彼の論文内容に大変感銘を受け、自身の研究方針すら変えようとしているようだ。
ココは、媚びるようにスター准教授の世話を焼き始めたジョージョーを一瞥すると「では、ボクはこれで失礼します」と一言告げて退室しようとした。
しかし、扉まで来たところでふと振り返る。
「…you can keep everything,」
(…全部差し上げますよ)
給湯コーナーのティーセットも、今までのデータも、彼の書いてきた論文も、好きにすればいい。
「 but not "that"」
(『それ』以外なら)
先程まで『彼女』のいた場所を見つめながらそう宣言すれば、不思議そうな顔をしたジョージョーと、何やら楽しそうにニヤニヤと笑うスターの姿が、今まで毎日のように通ったこの研究室を全く異質のものへと変化させる。
そのまま研究室を後にし、薄暗い廊下を抜けて、まだまだ寒さの厳しい屋外にでれば、屋内よりも気温は低いはずなのにどこかホッとしてしまう自分がいて、ココは知らず溜め息をついた。
(…恐ろしい男だった)
何もかもが不気味過ぎた。
肩書き、人生経験、そして身体能力において全てココよりも上で、しかしそんな男が入った研究室の未来が明るくなるとは到底思えない程、影を含んだ男だった。
―まぁ、自分にはもう関係ない話だ。
このタイミングで『庭』を出る事にして本当に良かった。
結局、ココはそのまま私物は一切持たず手ぶらで大学を後にした。