IGO大学体育会美食道部

□如月の境界線
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ココがジョージョー教授の研究室を去る日が来た。

思えば随分と長い時間を過ごした場所だが、今のところ全く未練はない。

あれだけ彼を引き留めようとしていた教授は、新しく海外からこの研究室に入りたがっている人材があると聞くと、いっそ潔い程簡単にココへの興味をなくした。

所詮、彼にとって自分はその程度で、自分にとっても彼の存在など特に何の意味もなく、今日こうして引き継ぎ作業を済ませてここを出れば、もう2度とこの場所での日々を思い起こす事もないだろう。


そんな事を考えながら諸々の手続きを終わらせ、研究室の私物をまとめる為にいつもの扉を開けたココは、そこに珍しく教授以外の人物を発見した。



新しく春からこの研究室に入るという男だろうか?


こちらに背を向け、窓の外を眺めているその姿からは、意外にも隙が感じられない。


確か、事前に送られてきた資料によると「Star」という名前だったはずだ。

そのいかにもなラストネームから、その人物はきっと国籍はアメリカでもチャイニーズ系の出なのだろうとココは予測していた。

彼らは国籍を取得する際にオリジナルの名字を元に「Justis」や「Holy」と言った新しい名字を作る事があるのだ。

しかし、人の気配に振り向いた彼は、ココの予想を裏切ってアラビア系の顔立ちをしていた。

いや、それだけではない。バルト海や地中海近辺の様々な民族の血が混じったような独特の雰囲気を持っている。

なかなかの美男子だ。

少し憂いを含んだ表情は、しかし鍛え抜かれたその体躯の上ではむしろセクシーにも感じられた。

「…Nice labo.(…良い研究室だ)」

ん?

ココは、僅かな違和感を感じ、少し探るような視線を男に投げてしまう。

たしか、アラビア地方では、相手に自分の持ち物を誉められると、それを贈らなければならないという慣習があったはずだ。

彼らの持ち物を軽々しく誉めてはいけないと、留学生や海外からの研究者が多いこの学部では一般教養の時間にわざわざレクチャーされた記憶がある。


「Dr.Jojo will be pleased to hear that.」
(教授が聞いたら喜びます)


しかし、見た目がそうというだけで、生まれも育ちも本国なのであれば、今のは余計な詮索だ。

そもそも彼の感想の意図が何であれ、自分にはもう関係のない話であって、たとえこれから研究室がどうなろうと、それすらもうココの範疇外である。

既に母国で博士号を取っている彼は、この大学で正式に准教授に任命された。

なぜそんな男がこの研究室に来たのか、先程の発言も含めて怪しい部分はいくつも出てくるが、しかしココはそんな彼に対して奇妙な親近感を抱いていた。


「If you have any questions, please let me know before I leave here.」
(何かご質問があればぜひ今の内に)

窓際からこちらへと向かって来る男は、今日はただの下見なのだろうか、そのいでたちは随分とラフだ。

ノーネクタイのダークカラーのシャツの下には、鍛え抜かれたと一目で分かる素肌がスパイシーな香りを纏っている。


自分に…似ている?


ふとココはそんな事を思う。

いや、そんな筈はない。しかしなぜ急にそんな事を?

自分で自分の感想に驚いたココは、彼と目を合わせた瞬間なる程と納得する。

少し影のある雰囲気が、かつての自分に似ているのだ。

自分が大切にしていた物を、ある日突然失ってしまった後の、諦めを含んだような切ない微笑みだ。

自分も、亜弥に出会わずあと10年もここにいたらこんな感じになっていたのかもしれない。


ココはそんな事をちょっと想像して嫌悪感に背中を少し震わせた。


「"any" question?」
(『どんな』質問でも?)


「…At least, you can try.」
(…とりあえず、お聞きしましょう)


…しかしこの男、さっきからやたらと格好付けた言動ばかりでいちいち気に障るが、仕方ない。

ココはとりあえず今までの研究データを保存しているパソコンの前に座った。


と、その後ろからスッと手が伸ばされる。


「っ!」


いつの間に背後へ!?

静かに驚愕するココの後ろに立った男は、左手をポケットに入れたまま、もう片方の手で優雅にマウスを握ると、最小限の動作で立ち上がっていた画面を最小化させた。

「Is this your girlfriend?」
(これはお前の女か?)

現れたデスクトップには、みかんを片手に満面の笑みを湛えた亜弥の顔があった。
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