IGO大学体育会美食道部
□弥生
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「1分です!」
小松さんの声が震えている。
それでも、きちんと声を張り上げてココさんにも聞こえるようにしてあげている彼は本当に凄いと思う。
私はさっきから目の前の光景に息をするのも忘れていた。
四角いコートの中には、ところどころに血が落ちている。
黒帯選手達の道着もそれは同じだ。
白い道着に赤い血は無駄に鮮やかな色彩を放っている。
「茂松、入れ」
一龍会長の声が静かな道場に響き、そして間髪入れずに開始の合図が下される。
ココさんは右瞼から出血していた。
与作先生が簡単な止血をして下さったが、そんなのは気休めだ。
出血で視界が塞がり、ココさんは右側が良く見えていないようだった。
巧みに体勢を入れ替え、何とか死角をカバーしようとしても、その動きの上を行かれて防戦一方になる。
「待て!」
一龍会長が合図を送り、小松さんがストップウォッチを一時停止する。
「ほれ、立たんか」
茂松副会長の裏拳をガードしたココさんだったが、その衝撃に体勢を崩し、そのまま膝をついてしまう。
対戦相手達は順番に休憩できるので、誰も息なんか乱れていない。
所詮、1本たったの1分だ。
しかし対するココさんは、呼吸も荒く、20本を過ぎて既に満身創痍の状態になっている。
床に手をつき、俯いたその顔から、ポタリ、ポタリと血が落ちる。
防具を付ける事すら許されなかった拳にも、何ヶ所か裂傷ができて出血していた。
こんなの…
こんなのおかしい!
私は叫んでしまいそうになる
伝統だかけじめだか知らないけど、こんなの集団リンチと何も変わらないじゃない!
こんな事して何の意味があるのか知らないけど、一時の達成感の為に命の危険まで侵すなんて馬鹿げてる!
「1分です!」
なんとか立ち上がり茂松副会長との組手を終えたココさんだったが、お互いに礼をした後でその場に崩れ落ちてしまう。
思わず小松さんが立ち上がるが、会長がそれを手を挙げて制した。
「どうした?まだ先は長いぞ」
立ち上がる事の出来ないココさんの襟を掴み、会長は鼻歌混じりに彼を引きずってコートの外へ運び出す。
「診るか?」
「いや〜?まだ全然イケるじゃろ」
そんな会話を交わす会長にも与作先生にも、私は殺意を覚えた。
「さて、ほんじゃまぁ、そろそろ現役の出番といくかの?」
そうして、今度はトリコさんから順番に色帯メンバーがコートに呼ばれる。
皆、この惨状を見て何を思っているかは分からないが、誰1人として手加減しようとはしない。
全力で向かっていく。
それが礼儀というものなんだろうか?
「亜弥、お主の番じゃ」
「…はい!」
小松さんが、堅く絞った雑巾で床に落ちた血を拭き取る。
そうしないと僅かなぬめりに彼がすぐに足を取られてしまうからだ。
「はじめ!」
そうして始まった、私と彼との1分間、私は全く動く事が出来ない。
同情ではない。
ここに立つまで知らなかった。
実際に対峙して感じるココさんの気迫は凄まじかった。
まるで手負いの獣だ。
満身創痍ながらもその眼光は鋭く、下手に攻めても瞬時に返り討ちに会いそうな予感がする。
そんなココさんからの威圧に、さっきまでの同情はどこへやらでビビりまくっていた私へ、トリコさんが激を飛ばす。
「亜弥!気合い入れろ!!お前はなぁ、ココに舐められてんだよ!
何でココから仕掛けてこねぇか分かるか!?
あ、ラッキー、今の内に休憩しとこうって、そう思われてんだよ!
お前それでいいのか?!
この1年で色々受け取ったもんを、何1つお返しできねぇで、それでいいのかよ!?」
「…っはい!」
そうだ
私は気を取り直して、構えを低く取る。
この構えは、彼が教えてくれたものだ。
彼が望んで『ここ』にいて、逃げようとしないなら、私はその選択を尊重しなければ。
彼ならきっとやり遂げると信じる事こそ、今彼が一番望んでいる事に違いない。
フェイントなんかいらない。ただ出来るだけ予備動作を小さくした回し蹴りを放つ。ガードと同時に出されたカウンターパンチは、ギリギリ紙一重でかわした。
満身創痍のココさんは、それでも当然私より強い。
リーチの違うその懐に跳び蹴りで入り込もうとするが、簡単に軌道を読まれて先に蹴りをくらってしまう。
空中で崩れそうになるバランスをなんとか保ち、着地と同時に死角になっている右側に敢えて回り込む。
…私達の1年が終わる。
学生時代の最後に、彼がこの抜き組手にどんな心境で臨んだのかは分からない。
でも、彼の覚悟を目に焼き付けよう。
そして、私の姿も、焼き付けてもらおう。
もう、会う事もないかもしれないこの人に、私の全てを見てもらおう。
私は1分間、ただただ無心に技を繰り出し続けた。