sirena

□casa
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【家】
 
見上げると、逆光になっていてはっきりとは見えなかったが、2階建ての建物の屋上と思われる辺りから誰かが覗き込んでいた。

「どうなんだ?」

そんな事言われても、そんな遠くに向かって返事をしようと思ったらかなり大きい声を出さないといけなくなるし、そうしたらきっと例の大男に見つかっちゃうだろうし…

ちょっと考えた私は、とりあえずブンブンと首を縦に降った。

「そこじゃ狭くて降りられん。そのまま真っ直ぐ行って曲がり角を右に行け。それから次の曲がり角を左だ」

この人、もしかして逃げ道を教えてくれてるの?

これが罠だったら…と思ったのは本当に一瞬で、気が付いたら、自分でもびっくりだが、その言葉の真偽をあれこれ考える前に体が指示された方向へ動き出していた。

さっきまではもう一歩も動けないと思っていた体が不思議と動く。
多分、あてもなくさまよう時と、はっきりした目的地がある時とでは、人間気合いの入り方が変わるんだろう


(これが火事場のなんとか力ってやつか)

それに、上から話しかけられた声の不思議なトーンが、あれだけいっぱいいっぱいだった私に落ち着きともう一度走る力を与えてくれた…気がする。

低めの、落ち着いた、でも芯の通った声は、まだきちんと姿をみる前から「この人は信じて大丈夫」と私に思わせる何かを持っていた。

言われた通り道を進むと、ちょっと開けた広場に出てきた。

家と家の間にできた本当にちょっとしたスペースだけど、木が1本植えてあって、日の光も入って来ていて、その明るさだけで何だか救われた気がした。

さっきの人はここに来てくれるんだろうか?

上を眺めてキョロキョロしてみたが、今のところ人影は見当たらない。

「あそこだ!」

!?

うそ!?

やっぱりさっきのアレは仲間の罠だったの!?
ここまでくればもう安心だって、勝手に思い込んでいた体は、もう膝がガクガクになっちゃってて、もう1回全力疾走する力なんてどこにも残っていないのに…。

なんか、急に全身に脱力感が漂う。

…簡単に信じるんじゃなかったなぁ。

助かったって、思ったんだけどなぁ。

恐る恐る振り返ると、思いっきり目がいっちゃった感じの大男が、若干鼻息を荒くして目の前に立っていた。


やっぱり、どう考えても演技とは思えない

不覚にも、鼻の奥がツンとした。

いや、もしかしたら「こんなのドッキリでしょ?」と私がヘラヘラしてるからこんなに迫真の演技をしているのかもしれない。

なにせ相手はプロだ

ターゲットから本気のリアクションを引き出すまでは何だってしてくるのかもしれない


そう、状況を分析できる自分の中にはまだ冷静さが残っている筈なのに…

完全に自分の許容量を超えてしまったこの事態に、私はいい年こいて目元を潤ませ始めてしまっていた。


ひどい

ひどい

あんまりよ


今回の旅行、楽しみにしてたのに

なにこの人達?

なんで見ず知らずのおっさんからこんなに睨まれんといけんの?

泣けば良いの?
視聴者が笑うような、変顔見せればそれで満足してくれるの?


「あぁ、泣かないでっ!」

「ごめんな、そりゃビックリするよな!おい!お前どうしたんだよ?さっきからおかしいぞ?」


残りの2人がやたらまともなフォローをしているけど、体格差のせいなのか上下関係があるのか、彼らは言葉でアプローチするばかりで、直接大男を止めようとはしてくれない。

大男は2人の言う事なんてお構いなしでどんどんこっちに歩いてくる。
 
男が一歩進む度にこっちも一歩下がるけど、すぐに壁際まで追い詰められてしまった。


「…っ!」


分かりました
分かりました!
真剣に付き合いますから早く次の展開にいっちゃって下さい!

そう覚悟を決めて目の前の男性を見上げて、私は息を飲む


違う


この目は演技じゃない


私、私……


(なんで?そんな事、ある訳ないじゃない、変よ、どう考えたって変!なんで…なんでそんな事思うの!?)


普段全然意識なんてすることのない、動物の本能的な直感が導きだそうとする答えに他ならぬ自分自身が戸惑っていたその瞬間―

 


フッと空が曇ったかと思うと、バササササ、と羽音を立てて何か黒くて大きい固まりが私と男の間に舞い降りてきた。
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