Hermit短編

□夏
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予備校からの帰りにはまだまだヤル気で西日をぎらつかせていた太陽が、着替えて出直す一時間ちょっとの間にすっかり大人しくなっていた。あの痛いほどの日射しはどこへやら、西の空はやわらかな茜色に染まり、夏の初めに刈り上げた襟足を涼しい風が吹き抜ける。

(夏も、もう終わりかー)

盆も過ぎればまあ当然なんだけど、ジュケンセーとしてひたすら勉強に励んだ今年の夏はマジで一瞬だったなと、少し肩が落ちる。つっても、夏らしいことを何もしなかったわけじゃないし、一生もんの思い出だってできた。要するに、こういうのはメリハリが大事なわけで、だから今日もこっから先は思いっきり楽しむに限る。

「行ってくるわー」

閉まる玄関ドアの隙間から家の中に声をかけ、返事を待たずに門を出る。夕暮れの道を慣れない下駄と浴衣で慎重に歩いていくと、道路脇の茂みの中からリーリーと虫の鳴く声がした。どこか遠くないところではヒグラシも鳴いている。

「おっ」

角を曲がると、目指す家の前に杏子の姿が見えた。向こうも気づいて振り返り、体をこちらに向ける。
明るめの紺の地に大ぶりの向日葵を散らした浴衣に、ざらりとした質感のオフホワイトの帯。去年天城から着付けの手ほどきを受けただけあって、浴衣姿は俺よりサマになっている。
ちなみに俺の方は、格子縞の浴衣に赤みの強いオレンジの帯という組み合わせだ。浴衣の地は生成りで、縞は墨色。毛筆で書いたようなゆらぎのある線がいい味を出している。

「帯、いい色だね」

あいさつもそこそこに、杏子が言う。

「な。締めたら思ったより派手じゃなかったわ。ってか、これ合ってる?ちゃんと結べてる?」
「んー」

背中を見せる俺の脇腹に、杏子の手が伸びる。季節を先取りしたような柿色の帯の上を細い指が滑り、結び目にくいくいと力がかかった。

「うん、合ってる。綺麗」

そう言って顔を上げた杏子の耳の上で髪飾りが揺れる。帯に色を合わせたらしい乳白色の花の飾り。一緒に浴衣を選んだときには見かけなかった品物だ。

「……ん、おまえもだな」
「え、私?」
「綺麗だ、って話。浴衣姿も、髪も」
「なっ」

照れ隠しにウインクを飛ばしながら言うと、杏子は俺以上に照れた様子でみるみる赤くなった。付き合う前から変わらない反応に、にやにやと口元がゆるむ。こういう顔が見られると思うと、多少気恥ずかしかろうがなんだろうが、なんでもストレートに伝えたくなる。

「やめてよもう。こんな、家の前で……」
「えー。ほんと言うとー、思いっきりハグしたりー、チッスしたりー、しちゃいたいくらいなんですけどおー」
「む、むりむりむりむり! やだもー、絶対誰かに会うのに、こんな真っ赤にさせないでよ……」

浴衣に合わせた内股の姿勢で、両頬を押さえる杏子。うーん、かわいい。すっごくかわいい。このかわいい子、俺の彼女。やっぱり今すぐギュッってしちゃいたいなー!

――っていう衝動をグッとこらえて、ただ手を差し出す。

「行こうぜ。顔が赤いくらい、夕日のせいだって言えんだろ」
「もー」

不服そうにしながらも、杏子はすんなりと手を重ねてきた。ちょっとびっくり。そこら中みんな知り合いみたいな家の周りじゃ、渋ることの方が多いのに。

「珍しいじゃん」
「お祭りの夜くらいはね」

楽しまなくちゃ、と俺と同じ気持ちを口にして微笑む彼女に、また愛しさが募る。性懲りもなく首をもたげる衝動を抑え、固く繋いだ手を引いて、まだ頬の赤い杏子を夕日の中に連れ出した。

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