Hermit短編

□あのころあのとき
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真夜中を過ぎたキッチンで、ひとり静かにコンロの火をつける。ホーローの小鍋の中にはカップ一杯分のミルク。そこに砂糖をひとさじ加えて、ゆっくりとかき混ぜながら温める。ホットミルクを飲みたいだけなら、すぐそこにある電子レンジを使えば手間がない。けれど、今の私に必要なのは、むしろその手間の方だった。

適当なところでスプーンを引き上げ、ウールのストールの合わせを押さえて白い水面に目をこらす。鍋肌にふつふつと泡が立ち始めたのを頃合いに火を止め、わっと湯気を吐いた鍋から、温めておいたカップへと中身を移す。ぬくもりを明け渡した鍋はシンクに入れ、その内側に今度は冷たい水を満たした。

テーブルにはつかず、キッチンで立ったまま、カップに口をつける。
カウンターの向こうのリビングとダイニングは暗いまま。キッチンから漏れる光にほんのりと浮かぶ部屋を眺めながら、温かいひとくちを胃に落としていると、廊下にふと人の気配が立った。この家に、自分以外の人間はひとりしかいない。

「ごめんね、起こしちゃった?」

ほどなくしてキッチンに現れた陽介に、そう声をかける。

「いや、俺もなんか、うまく寝れなくて」

そう言って間近にやって来た夫に、手の中のカップを持ち上げて言う。

「飲む?」
「んー、じゃあ、ヒトクチ」

洗って乾かしただけの髪に、やわらかくゆったりとしたパジャマ。この上なくラフな姿で、彼は受け取ったカップを口に運んだ。眠たげにしばたいていた瞼がまどろむように閉じられ、その目がもう一度開かれるまで、私はじっと彼を見ていた。

「ごっそさん」
「ん」

と頷いて、手を伸ばす。けれど、戻ってくるはずのカップは指先をそれていった。驚いて目で追い、半身になった私の肩に手がかかる。カップがワークトップに置かれた時には、私の体はもう陽介の腕の中にあった。背中から包むように私を抱いた彼が、首元に顔を寄せて囁く。

「怖い夢でも見た?」
「……うん」

夫は、いつだって私以上に私のことを分かっている。今日もまた言い当てられてしまった――と、そのことに限りない安心を覚えながら、彼の腕に触れ、体の力を抜いてその温かな胸に背中を預ける。

「忘れた頃に夢に見るの。あの頃のこと。あなたや、みんなが、シャドウに襲われて大怪我をしているところ」
「きっついな」
「うん。ひと目でわかるの。もう手遅れだって、私にできることは何もないって」

実際にあった出来事ではない。けれど、あわやという場面が一度もなかったわけでもない。
霧に隠された真実を追ったあの高二の日々に、それまでは遠い存在であった「死」が、突然に身近なものとなって常に傍らにあった。にも関わらず、私たちは十七歳が持つ無限の生命力と根拠のない自信によってそれをねじ伏せ、当たり前のように未来を見ていた。

「私たちならできる」と、よくもあんなに心強くいられたものだと、振り返れるだけの年月を経た今になって思う。こんなふうに、夫となった陽介の腕に抱かれる日など、来なかったかもしれないのだ。その「もしも」の恐ろしさが、今ごろになって、ときおり首をもたげる。

「そういう時は、ミルクなんか沸かしてないで、お隣のベッドに潜り込んできたらいいんですよ、奥さん」

あの頃より、少し低くなった気がする声で、陽介が言う。

「んー、そうねー」
「それすると、面倒なことになる?」
「んー」

なるに違いない。なにせ、さっきからずっと意味ありげに胸の下やおへその下を撫でられている。肩にあった腕はいつの間にかストールの下に潜り込んでいて、本当は、もう一枚下に入って、じかに肌に触れたいのだと、それくらいなら私も陽介の考えていることが分かる。

「あっ、んんっ」

返事を曖昧にしている間にエスカレートした愛撫が、敏感なところをまさぐった。思わず声を上げ身をよじると、陽介は「いい声」と呟いて、ふたたび私の肩を抱いた。抱くというより、羽交い締めと言った方がよさそうな、少し荒い動きだ。

「俺も、今でも見るよ、『あの時』の夢」

さっきより、さらに低い声が耳のすぐ横で吐き出される。

「……ごめん」
「一生言ってやるからな、これ」
「うん」

あの時というのは、忘れもしない、高校二年のあの春の、三月二十日の日のことだ。
鳴上くんの帰京を翌日に控えたその日、私たちは、真実の奥の更なる真実へと辿り着き、二度までも、神を名乗る存在と対峙することになった。

国生みの神の一柱であると宣ったその相手は、恐ろしいほど強大で、私たちは、一度はその力に呑まれた。その時、撃ち出された原初の呪いの最初の犠牲者となったのが、私だったのだ。

特に狙いをつけられたわけではない。鳴上くんに向けて放たれた禍々しい攻撃が呪いであることを察し、飛び出して彼をかばった結果だった。私はその手の攻撃に高い耐性を持つ能力者だったから、あわよくば呪いを免れ得るだろう、そう上手く運ばなかったとしても、わずかでも時間稼ぎになれば――と、まあ実際はそんなことを考えるよりも早く、体が動いていたのだけれど。

「なんども言うけど、理屈はわかってんだよ。けど……」
「うん」
「俺のこと振り返りもしないで、最後に全員に回復投げて……」
「うん」
「なんもさしてくんなかったの、マジで一生恨むからな」
「うん」

陽介の隣に立つことを許された日に、私は自分に誓ったはずだった。自分は決してこの人を置いていかないと。彼に二度と辛い思いをさせないと。
けれどあの時、このまま陽介そのものをも失うかもしれないという命の瀬戸際にあっては、誓いに従ってなどいられなかった。
唯一無二の力を持つ鳴上くんは、私たちの希望だった。あの土壇場で何かできるとしたら、彼しかいない。だから動いた。
そして実際に、彼は奇跡を呼び、私たちに未来をもたらしてくれた――。

ふーと、陽介の鼻から漏れた息が、首筋にかかる。

「けどさ、俺、知ってんだ」
「なにを?」
「そういう夢を見んのは、決まって順調なとき」
「あ……」
「だからダイジョーブ。俺たちは今、幸せなんだよ」
「――それは、間違いないね」

だろ? と笑って、陽介の腕がゆるむ。ほどけた両手はもはや遠慮もなく、私のパジャマをめくって、それぞれが彼の愛する場所へと伸びていく。

「ちょっと、あっ、やん……」
「んおー、やわらけー」
「もおお!」

くねくねと身をよじって伸び上がった私の体を押さえ込み、陽介の唇が耳たぶに食いついた。あっ、と息をのんだ瞬間に、甘い囁きが耳をくすぐる。

「なあ、しよーぜ。明日休みだし」

言うと思った……と思いはしたものの、言葉にはならない。私の体の緊張が抜けていくのと同時に、彼もまた腕を抜いて、私を正面から抱き直した。

「お互いちゃんと生きてここにいるんだって、もっといっぱい、幸せ感じちゃおーぜ」
「……ん。いいよ」

断る理由など、ありはしない。ただ、合意のキスを交わしたそのあとで、私はひとつだけ注文をつけた。

「ミルク、全部飲んじゃってからね」



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