往復書簡短編

□KISS KISS KISS
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8月24日(金)

「なんか私、すっごく甘やかされてる」

夏の終わりの金曜日。一週間まるまる通いつめた月森くんちのリビングで、逆さ向きに座ったソファの背もたれに頬杖ついて呟く。誰に向けた言葉かっていうと、それはもちろん月森くんで、その月森くんはっていうとダイニングテーブルの向こうのキッチンで麦茶を注いでくれている。
自分のじゃないんだよ、それ。私がおかわりしたくて立ちかけたのを、月森くんが「俺が」って言って、私の唇とコップをいっぺんに奪って持っていっちゃったやつ。

「何か問題でも?」

麦茶のポットを冷蔵庫にしまいながら、月森くんが言う。私は「問題っていうか……」と言葉を濁しながら、戻ってくる彼を目で追って、差し出されたコップに手を伸ばした。

「あんまりなんでもしてくれちゃうんだもん、月森くん」
「昼は作ってもらってる」
「それだって、結局は手伝ってくれるし」
「美織と料理するの、楽しいからな」
「あっ――! ほら、またそうやってー」

話しながら隣に座った月森くんに、またしても鮮やかに唇を奪われて、それ以上何も言えない感じにさせられちゃう。悔しい。っていうか、麦茶こぼすかと思ったよ、もー。

「――気にしなくていい」

なんとなくやさぐれ気分で膝を抱え、ちびちびと麦茶を飲んでいたら、月森くんがポツリと言った。

「俺がしたくてしてることだし。それに、俺だって十分甘やかされてる」

横を向いて視線を合わせた以外、えーも、どこがーも、うそーもなんにも言ってないんだけど、顔には全部出ちゃってたみたいで、月森くんは静かに首を振ってから続けた。

「嘘じゃない。家にひとりじゃないっていうのが、俺にとっては一番嬉しいことだから」
「あ……」
「去年、菜々子や叔父と暮らしてすっかり寂しがりになったから、余計にね」

そう言って、はにかむように笑った月森くんが私を見つめる。透き通ったグレイの瞳は今日も吸い込まれそうなくらいに綺麗で、私はそっと麦茶を置いて月森くんに向き直った。

「美織が、くつろいでうちにいてくれるのが嬉しい。今週は特に、ずっとそうやっていられたから……最高だったな」
「うん、私も」

彼氏彼女になって初めての、そして高校最後の夏休み。
月森くんの稲羽への帰省と私の家族旅行が入れ違いになって、なんとお盆過ぎまで会えないってことに気付いた私たちは、残りの毎日はとにかく一緒に過ごそうって約束をした。

先週の終わりから、平日は午前の早いうちにここに来て、お昼を挟んでみっちりと勉強(受験生だからねー)。おやつ時になったら切り上げてふたりの時間にして、夜は帰りがてらに次の日の買い出しをするっていう、そんな生活をしてる。うん、そうなんだよね、デートっていうか、生活。それがすごく楽しい。
お泊まりこそしないけど、勉強道具とかちょっとした日用品なんかは置きっぱなしにさせてもらって、キッチンでお昼を作って、ダイニングで食べて、リビングのソファでごろごろして――って、月森くんのお父さんお母さんがお仕事で留守の月森家で、まるで自分の家にいるみたいにのびのびさせてもらってる。

なんか、同棲ってこんな感じ? とか帰りの電車でにやけちゃったりもして、夏の半分を「月森くんに会いたいよー」ってひたすら嘆いて過ごしてたことなんて、もうすっかり忘れちゃった。そんな毎日を、月森くんも「最高」って思っててくれて、嬉しい。 

「毎日でも来てくれる美織と、それを許してくれるご両親に、俺はめいっぱい甘えてるんだよ」

そう言った月森くんが、膝に置いた私の手に手を重ねる。薄水色のサマーセーターは半袖で、エアコンもしっかり効いている部屋なのに、月森くんの体は今日もぬくぬくとあったかい。昨日も一昨日もそうだったって思えることが、照れくさくって、でも幸せで、もっと近くでその体温を感じたくって、少し浮かせたおしりをよいしょって月森くんの方に寄せる。

「それこそ全然気にしなくて大丈夫。うちの親、月森くんにメロメロだし、成績も上がってるから文句のつけようもないって感じ」
「ちょっと心苦しいな、勉強だけしてるわけじゃない、ってのが」
「いいの、それは。私だってそうしたかったから、そうなってるんだし」

お互いに遠回しな言い方をして、肝心なところは言わない。言わないけどわかってるってことを見つめ合う瞳の中に確かめて、そのまま吸い寄せられるみたいにキスをした。
今度のキスは、一方的じゃない、どちらからも奪わない、気持ちの通い合った、とろけるような甘いキス。ゆっくりとひとつに重ねた唇をまたゆっくりと遠ざけて、でもそれ以上離れちゃうのが寂しくて、月森くんの肩にこてんと頭を乗せた。

「――私たち、ちょっとは悪い子かもだけど、だからこそ、いい子にもしてようね。門限遵守に、成績向上。うわべだけでもちゃんとしてたら、何かのときも、たぶん、きっと、大丈夫」
「はは、美織らしいな」
「あ、褒めてないでしょ、それー」

くすくすと笑う月森くんを押しのけて顔を上げたら、ゆらーんと反った彼の体がブランコみたいに戻ってきて、ぽすんと私の胸に飛び込んだ。

「わっ」
「はー」

薄着の胸に、月森くんの熱いため息がかかる。

「結婚したい。ふたりの家が欲しい」
「せっかちさん」
「わかってる。でもそう思う」

今度は私がくすくすと笑いながら、ソファに深くもたれて、胸に抱いた月森くんの頭をよしよしとなでる。指にからむ髪の毛はさらさらだけどコシがあって、一本一本が遠目で見る以上に淡い色をしてる。すくい上げたひと束をライトの光に透かしてパラパラと指からこぼしながら、綺麗だなあと思った。

「結婚だけならできなくはないよ」
「そうだけど、親の同意もいるし、世間体もよくない」
「月森くんって、ときどきちょっと古風だよね」
「美織が大事だから。しなくていい苦労はさせたくない。家だって、ちゃんとした町のしっかりした物件に住みたい」
「あ、あれみたい。さっきやった、八雲立つ――」

八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに
八重垣作る その八重垣を

愛しい妻を守るため、出雲にわきたつ雲のように何重にも垣根をめぐらせた宮を作ろう……ってそんな意味の、神話の中の古い歌。妻って表現はちょっとくすぐったいけど、ぴったりな歌だと思ったのに、月森くんはイヤイヤをするみたいに首を振った。

「それはスサノオだから、俺じゃなくて陽介」
「ひゃっ」

腰に巻きついていた月森くんの腕にぐいっと力が入って、背もたれから浮いた背中が座面にころんと転がされる。押し倒した私の体を丸ごと隠すみたいに覆い被さった月森くんは、首筋に額を寄せてもう一度ため息をついた。

「結局は、ちゃんと大学に行って、就職して、資金を貯めて、それからなんだろうな」
「急がば回れだねー。千里の道も一歩から」
「だいぶ遠いけど、でも仕方ない」
「気長にやろ。慌てなくていいよ。それまでも、その先も、私はずっと月森くんと一緒にいるから」

そう言って、腕を伸ばして月森くんの広い背中をぽんぽんと叩いた。そしたら月森くんの動きがピタッと止まっちゃって、あ、子ども扱いみたいで嫌だったかなって思った瞬間、その体がぐっと沈んできた。

ぎりぎり私が苦しくないくらいの体重を乗せて、月森くんが私の体を抱き締める。首にかかる吐息や髪や、きしむソファと背中の間に差し込まれた腕がくすぐったい。じっとしてられなくて、声を上げて身をよじる私をさらに押さえ込んで、月森くんがまたキスをした。奪うキスでも、甘いキスでもない、食らいついて、飲み込んで、求め、乞う、熱いキス。

必死で応えて息を荒くした私の耳元で、唇を離した彼が囁く。「部屋に行こうか」って。言われたとたん、耳や、お腹がボッって熱くなった。
こうやってじゃれ合っているだけなら、ここでいい。リビングでいい。それなのに、それよりもっと身を隠そう、誰の目も届かないところに行こうっていうのは、つまり、そういうこと。

見つめ合う瞳の中にお互いの気持ちを確かめて、今度は私からキスをした。「いいよ」って伝えるための、心を込めた、小さなキスを。


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