テニスの王子様

□お父さんと丸井くん
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「美香!」


一瞬、目の前に現れた人が誰かわからなかったから、名前を呼ばれた時は自分の目が信じられなかった。


「え?ブ、ブンちゃん?」

「そうだろぃ!」


声は確かに大好きなブンちゃんの声だったが、いつものラフな服装とは打って変わって、正装にも近い真面目な格好と決定的に違うのはその…………黒髪だ。
ブンちゃんのトレードマークだった赤髪がすっかり黒髪になっているのだ。


「髪が………」

「黒も似合うだろぃ?」


黒髪に手を伸ばすと、ブンちゃんは照れ臭そうに言った。
その姿が新鮮で、いつもとは違う動悸で胸が苦しい。


「うん。格好良いよ」

「へへっ!やべぇ……緊張してきた」

「ブンちゃんでも緊張するんだ」

「当たり前だろぃ!美香の親に挨拶すんのに緊張しない訳ねぇだろぃ!」


目の前の家を見て胸を抑えるブンちゃんがとても愛おしくて、思わず近所の人の目も構わずに抱きついた。


「大丈夫だよ。私もブンちゃんと一緒にいるからね」

「おう!絶対認めて貰おうな」


優しく抱きとめてくれて、勝気に笑う姿を見ていると、この人となら何だって出来るような気がしてならない。




リビングは、二人でいた時が嘘のように張り詰めた空気が漂っていた。
正座をしているブンちゃんと私と向かい合うようにお母さん、お父さんが座っている。
お母さんは心配そうに場を見守っているが、お父さんは厳しい表情で腕組みをしていた。
このどこかのドラマで見たことあるような光景。
隣のブンちゃんの心音まで聞こえてしまいそう。


「絶対、幸せにします。美香さんを俺に下さい」


若干震えた声で黒髪の頭を下げたブンちゃん。

私達はまだ子供かもしれない。けれど、ブンちゃんとならどんな困難も乗り越えられる。乗り越えていきたい。
私もそんな思いを込めてお父さんを見つめた。


「君は何歳だ?」

「15です」

「まだ義務教育も終えていない君が、美香を幸せに出来るのか?もう一度、思い返した方がいい」


思っていた通り、お父さんは笑顔を見せることも、首を縦に振ることもなかった。


「…俺はまだ全然子供ですけど、美香のことは心から幸せにしたいと思っています」


ブンちゃんの言葉がじーんと心に響いて泣きそうになったが、今はぐっと堪えた。


「これからも美香と一緒にいたいです」

「私も、ブンちゃんとずっと一緒にいたいの!お願い、お父さん」


私も身を乗り出して訴えるが、お父さんは相変わらず腕組みをして


「お前達がやっているのは、恋人ごっこだ。そんな軽い気持ちで結婚まで考えるなら、もう別れて貰う」

「……っ、俺は」


爪が食い込むくらいに握られた拳をブンちゃんが開いた瞬間、私の方が先に動いていた。


「私達は、遊びで付き合ってるんじゃない!この子の父親もブンちゃん以外にいないんだから!」


私とブンちゃんの関係を『ごっこ遊び』と言われたことへの怒りが爆発した。
その瞬間、何も知らなかったお父さんの表情が一変した。


「なんだと」

「……私、赤ちゃんがいるの」


私がお腹に手を当てると同時に、お父さんは立ち上がってブンちゃんに掴みかかっていた。


「お前はっ…何を考えてるんだ!」

「お父さん、止めて!」


すっかり頭に血が昇ってしまったお父さんは、ブンちゃんの胸倉を掴んで立たせると、思いきり拳で殴った。

その反動で尻餅をついたブンちゃんとお父さんの間に私は立ち、お母さんもお父さんを抑えていた。
一人娘だった私は、それまで温和で優しいお父さんしか知らなかったから、余計に目の前で起こっていることが信じられなかった。大好きなお父さんが、私の大切な人を傷つけるなんて。


「もう、娘とは会わせん」


肩で息をしたお父さんは、はっきり言うとリビングを出て行った。残されたブンちゃん、私、お母さんの間にただ沈黙が流れる。それを破ったのは、お母さんーー


「ブン太くん、大丈夫?あの人ったら、娘のこととなるとああだから」

「…俺は大丈夫です。また、明日来ます」

「そう。でも、もう美香とは会えないけれど、それでも?」

「はい」


試合中とはどこか違う真剣な顔をして、きっぱり答えた。それを見て、お母さんは少し微笑んで「頑張ってね。二人共」と言ってくれた。




外に出ると、秋の風が肌に染みた。
私は玄関に出てから、ブンちゃんの頬に手を添えた。


「…血、出てる。ごめんね…」


そう言って、そっとブンちゃんの頭を引き寄せて、血が滲んでいる口端にちゅっとキスをした。

走馬灯のように過ぎた出来事だった。

申し訳ないやら悲しいやら悔しいやら……その他、名前も知らないような感情が私の心にいっぱい募っていた。


「こんくらい大丈夫だって。気にすんなよぃ。それに……覚悟はしてたしな」


眉を下げて困ったように笑うブンちゃん。きっと、一番辛いのはブンちゃんのはずなのに、彼はそれを全く見せない。
いつも勝ち気に笑い、私を優しく撫でて安心させてくれた。私がどれだけブンちゃんに助けられたか知れない。


「私、もうブンちゃんと会えないなんてやだ…」

「俺もだよぃ。けど、俺は美香に会えなくても、絶対認めて貰うから」


「待ってろぃ」とブンちゃんは、私を抱きしめた。もう何百回、何万回も抱きしめられたことがあるのに、ブンちゃんってこんなに大きいんだと思った。

私は、この人と一緒にいられるなら、何年でも待っていられるーー


「ブンちゃん…」


見上げると、そっと唇が重なった。何回か、角度を変えて浅いキスを繰り返した後、体が離された。


「それじゃ、連絡はするから。体冷やすなよぃ」

「うん。ブンちゃんも無理しないでね…」


ブンちゃんは優しく微笑み、私のお腹を撫でて帰って行った。
今日は、漆黒の赤髪。その背中をしっかり目に焼き付けたくて、見えなくなるまでずっと見つめていた。

この子のお父さんの背中をーー



fin.

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