テニスの王子様
□追いつけない謙也くん
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俺が中2の時やった。
朝、遅刻ギリギリで全速力で走とった俺は、いとも簡単に追い抜かれた。
いくら必死に走っても全然追いつけんくて、颯爽と俺の前を走る姿が、短くても風に靡く髪が綺麗で、その後ろ姿にただ見惚れてもうた。
「足めっちゃ速い女子?」
白石は、しばらく腕を組んで考えた後首を振った。
あれから色んな奴に聞いて回っても、誰も『足が速い女子』を知らんかった。
俺は、屋上の手すりに寄りかかって空を仰ぐ。
「おかしいな…四天宝寺の制服やと思ったんやけど、見間違ったんかな」
隣に白石も同じくフェンスに寄りかかって来た。
「そんなに気になるん?」
「まぁ……負けた敵の顔は見ておきたいやん」
「敵かい。せやけど、忍足より速いんやったらすぐわかるやろ。しかも女子やし」
「せやな……またあのスピードでそこら辺走っとったらええんやけど」
笑いながら体を反転させて校庭を眺めると、丁度誰かが走っとった。
綺麗なフォームと一定のペースで校庭を走った後、短距離用のスターティングブロックの位置について、しばらく用意をする。
その人が走り出すまでの間、俺は食い入るように見つめとった。
なぜか目が離せんくて、心臓がドキドキして、どこからかピストルの音がしたような気したと思ったら、その人はもう50mを走り終えとった。
「………あいつや」
呟くと、白石も俺の見とる校庭を眺めた。
「あの人が忍足より速い女子なん?」
「多分、そうや。間違いない…!」
なぜか俺は、武者震いしとった。
自分が思う以上に、そいつを見つけられたことが嬉しかったんかもしれん。
でも、見つけられたからどないするっちゅー話や。俺はこの人を見つけて、どないするつもりやったんやろう。
「あいつは陸上部の藤井美香やで」
「「うわぁ!!」」
突然、俺と白石の間から顔を出して来たハラテツ先輩に驚いて、俺らは飛び退いた。当の本人は、そんな俺らを見ても何食わぬ顔や。
「ケンヤ、藤井に気ぃあるん?」
「ばっ…んなわけないやろ!あ、ちゃいます!ただどんな奴か思っただけで」
「そうかいな。ま、あいつは走ることにしか興味ないから、無駄やで」
「せやから…!」
いくら弁解してもハラテツ先輩はただ、わかっとるわかっとる、と笑うだけ。
ああ、3年やったから誰も知らんかったんか。ちゅーか陸上部やったんか。そら速いはずや。
俺はもう一度校庭を眺め、藤井先輩が走るのを見つめた。
「ケンヤ〜」
それからしばらく経ったある日、廊下でハラテツ先輩に呼び止められた。
「ええか?腰抜かすんやないで」
そう言いながら、ニヤニヤしとるハラテツ先輩の後ろから顔を出してきた人を見て、俺はほんまに腰抜かしそうになった。
だってそれはーーあの『足が速い女子』
「な、ななななななんでやねん!」
「ケンヤ、誰もボケてへんわ。藤井に会いたい言うてたやろ?連れて来てやってん」
「んなこと言うたか!?」
どうしてこない焦ってるんかわからんかった。
けど、目の前におる人は短い髪がよう似合っとって、走っとる時以上に綺麗やった。
「初めましてやね。忍足くん」
少し日に焼けた顔で笑いかけられた瞬間、心臓がバクバク止まらんくなって、その後はなに言うたか覚えてへん。
今思えば、ハラテツ先輩に感謝せなあかんな。
これがきっかけで、それからはよく藤井先輩と話すようになった。
オモロイくらい気が合うて、昼休みに俺も走るようになったり、部活が終わった後に一緒に帰ったりもした。もちろん、走って。
藤井先輩と走るんは、いつでもどこでもめっちゃ楽しくて、やっぱり俺より速くて、俺なんかじゃ追いつけへんくて、悔しかった。
「浪速のスピードスターは藤井先輩やな」
俺がそう言うと、藤井先輩は
「それは忍足くんやわ。忍足くんの走りはキラキラしとるから」
と笑うた。
それは自分の方っちゅー話や。
自分は走っとらんでも、俺の中でキラキラしとるさかい。
少し前までは、俺が誰かの背中を追いかけるなんて思いもせんかった。いや、藤井先輩やったから追いかけたんかもしれん。
あの時、追い抜かれた時からーー
「なに考えとるん?」
藤井先輩が無邪気に俺の顔を覗き込んできたから、真剣な顔をしたまま見つめ返す。
今が夕日でよかった。赤くなってる顔を誤魔化せる。
「藤井先輩、俺…」
深呼吸をして、今日こそは…何度も練習したあの言葉をーー
今まで以上にうっさい心臓を抑えて決心つけた時、目の前にいた藤井先輩がいきなり背中を向けて走り出した。
「藤井先輩!」
この後が肝心やのに!
走りながら、立ち尽くしとる俺を振り返って藤井先輩は笑う。
「うちに追いつけたら、続き聞いたる!」
ほんまによう走る人や。
俺は苦笑して、やっとその後ろ姿を追いかけ始めた。
なかなか縮まらへん距離をそれでも必死に走る。
絶対に追いついたる。
風に混じって、藤井先輩の爽やかな香りがした。
その残り香に導かれるように、風と一体になるように、だんだんとスピードを上げて行くと、夕日を背景にして、あんなに遠くにあった背中が、なかなか追いつけへんかった背中が信じられんくらい傍にあって
俺は、思いきり腕を伸ばした。
「捕まえたで」
やっと、追いついた。
fin.