普通大学生のバイトといえば、飲食店の店員だったり、テーマパークのスタッフだったりするんだろうけれど、音大生のバイトといえばその特技を生かして『演奏』ということが(というより、すでに演奏活動をしている音大生もかなりいたりするのだ)よくある。
かくいうぼくも、オーケストラの助っ人などを頼まれることもあれば、フルートやピアノのコンサートのアンサンブルを頼まれたりもする。
今日もそんなバイトのひとつを終えて、オーケストラの方にお先に失礼します、と声をかけてケースをもって外に出た。
顔見知りになった方から打ち上げにと誘われたけれど、いつものように断ってとっとと帰宅の途につく。
たまにはつきあえよ、という言葉もいつものことだけれど、いつなんどき突然連絡をよこすかわからない恋人を持つ身としては、できるだけ身体をあけておきたい。
ただの友達のフリをするのだと、共犯者の約束したあの高校三年生の頃、できるだけ自分の生活のペースを乱さないようにしていた。
いつも忙しい恋人の時間がふと空いたときに、すぐに見つけてもらえるように。
この時間なら温室、この時間なら食堂。そんな風にいつでも彼はぼくのことを見つけてくれた。
そんなとき、たとえいつも一緒にいられなくても彼はぼくのことを想ってくれているのだと、心の底が暖かくなるような感情を覚えたのだけれど。
「さすがに、日本とアメリカじゃ、ちょっと時間があいたから会いにくるってレベルじゃないものなぁ」
わかっていても、ひょっとして連絡があるんじゃないか、突然現れるんじゃないか、と期待しちゃっている。ため息がでてしまうのも仕方ないよね。
寮の部屋に戻ってシャワーを浴びて、濡れた髪をタオルで拭きながら歩いていると、視界の隅に点滅する光りがはいりこんだ。
「うわっ」
小さく歓喜の悲鳴をあげる。
机に置いてあった携帯を慌てて取り上げた拍子に、床まで落ちたタオルの行方など気に留める余裕なんかない。
高校三年の9月からぼくが持っている携帯は、本体こそいつも最新のものに交換されるけれど、ハート型プラチナプレートのストラップはあの頃から変わらない。
揺れるストラップごと携帯を手にして、着信を確認。
やっぱりギイだ!
『託生 さっきからお前の顔ばかり思い出している。
単にオレがお前を求めているからなのか。
それならいいんだ。
ただ、あまりにもお前のことしか考えられないから、
ひょっとしてお前に何かあったんじゃないかと思っちまったんだ。』
心配しているような、拗ねているような微妙な声音で留守番伝言サービスに残されていたのは、そんな内容。
ひどいな、ギイ。
逢いたくてたまらなくなるじゃないか。
明日は七夕。
天の川の両岸に引き裂かれた恋人たちが一年に一度だけ逢える夜。
同じ地球上にいるのに逢えないぼくら。
携帯をそっと胸に抱いて。
「あいたいよ、ギイ」
あいたくて、たまらないよ……
ギイのことを考えてぼんやりと夜をすごしてしまったせいで、なんとなく寝不足気味のままキャンパスに向かう。
七夕の日は雨が多いけれど、今日は朝からいい天気で、夜まで崩れる心配はないそうだ。
星空に住む恋人たちは数年ぶりに会えるのだろう。
晴れただけで逢えるなんていいよなぁ、と。考えてしまうぼくは、どうやら相当ギイが不足しているらしい。
頭を振ってギイの面影を振り払い、なんとか講義に集中しようとしていると携帯に着信があった。
当然マナーモードにしていたから、友人ごとにかえてある着信音がわからない。
ちらり、とディスプレイを見れば……。
ギイ?!
講義が終わるのももどかしく、チャイムと同時に教室を飛び出した。
人の多い場所を避けてリダイアル。
出てくれるだろうか。飛行機に乗ってるとか会議とか、もう話せない状況だろうか。
出た!
「もしもし?!」
『託生、今どこ?』
「え、どこって…学校に決まってるじゃないか」
ギイが鼻歌交じりに備え付けのポットでお茶を入れてくれている。
正門前で待ち合わせて、近くの定食屋――量が多くて美味いとギイは気に入ったようだ――で夕飯を済ませて、ギイは現在ご機嫌である。
電話の向こうからギイは、なんと、大学の最寄り駅近くのホテルの名を告げて、今夜はそこに泊まるから来いよ、というとんでもないことをぼくに告げたのだ。
そこはたんなるビジネスホテルで、どう考えたって、ギイが宿泊するようなグレードのホテルじゃないのに。
ぼくの学校に近い、という理由だけでそこを選んだことくらい、鈍い、疎い、とさんざん言われ続けているぼくにだってわかる。
本当はすぐに飛んで行きたかったけど、まだ講義やレッスンがあって、じっと我慢したのだ。
でも、このあとギイに会える、と思っていたせいか、レッスンではものすごく調子よく弾けて、教授からお褒めの言葉を頂いてしまった。
やっぱり、恋人の存在って、大きいよね。
そのギイは湯のみを両手に持って来てベッドサイドのテーブルに置く。
「もう、あんまりびっくりさせないでよね」
「だって託生に逢いたくてたまらなかったんだ」
と、拗ねるギイ。
普通の人はそれだけの理由で国際線に乗ろうだなんて思わないだろうけれど、ギイは年賀状を出すためだけに太平洋を越えた実績をもつ男なのだ。
「移動時間だって馬鹿にならないのに」
「ちゃんと飛行機の中でも仕事してきたよ」
ジャケットをハンガーにかけていたぼくを背中から抱きしめる。
「今日は七夕だぜ」
天の川に引き裂かれた恋人たちでさえ一年に一晩逢うことを許される夜なのに、オレたちが逢えないって法はないだろ、だなんて。
頬にあたるギイの柔らかい髪と熱い吐息。
もう何年も――何十回となくこうしているのに、そのたびにぼくはギイの存在にドキドキする。
初めてギイとキスした春からもう四年以上たったというのに、まるで初めて恋した少年のように。
「託生」
耳の中に直接吹き込まれる熱に、ぼくは微かに身体を震わせる。
「ギイ…」
首をひねるとそっと口唇が重ねられた。
歩く道が違っても、それは仕方のないことだけど、
でも、君を知らなかった頃の自分にはもう戻れないから。
だから、この手を離さない。
絶対に。
抱きしめてくる腕の力に。
抱きしめ返す腕の力に。
何があってもこの想いを否定しないことを誓って。
彦星と織姫のように、一年に一度しか逢えなくなったとしても。
fin.
2009/07/07