死神と逃げる月
□全編
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《お婆さんと返す人・3》
その秋、何度目かの台風の夜。
独り暮らしのお婆さんは、雨風の音にじっと耳を澄ませていた。
そのうち何かを感じておもむろに立ち上がり、玄関へと向かう。
「やはり来たかい。お節介の虫め」
突然一切の音が止み、玄関に何かが投函される。
お婆さんは、それを待ち構えていた。
ぶっきらぼうに投げかけたお婆さんの言葉に、返事が返ってくる。
「私は返す人です。あなたが騙し取られた分の代金を…」
「分かってる。それで最後だろう。もうあの子から買うのは終わりにしたからね」
「…そのようですね」
「あの子もパッタリと来なくなったよ。どうだい、これで満足したかい」
「満足など。私はただ、無くした物を持ち主に返すだけの…」
「要らないって言ってるじゃないか!いい加減にしておくれよ!」
お婆さんは自分でもビックリするほど声を荒げていた。
こんな怒鳴り声を上げたのは、何年ぶりだろう。
それはまだ、あの子がいた頃だったと思う。
「……」
「分かっていたさ。私はあのセールスマンと自分の息子を重ね合わせていただけ。代わりに可愛がって楽しんでいただけだよ」
「でもそれの何がいけないって言うんだい。息子は、息子はもう帰って来ないんだよ」
「あの子が来てくれるだけで私の気持ちは充分慰められていたんだ。お金なんか騙し取られても構わなかった。でも、あんたのおかげでもう来てくれないよ」
返す人に返事のタイミングを与えないくらいにお婆さんは捲し立てた。
今までに溜め込んで見ないふりをしていた寂しさが、堰を切って一気に溢れていく。
「何が返す人だ。私が本当に返してほしいものは…」
お婆さんは言葉に詰まり、両手で顔を覆った。
「私が…本当に返してほしいものは…こんなものじゃないんだよ」
その時、玄関の外にいる人物が何かを発した。
その言葉がよく聞き取れず、お婆さんは聞き返そうとしたのだけれど
また打ち付けだした台風の音にかき消されてしまった。
すなわち「返す人」はもう去ったのだ。
お婆さんはしばらくの間、玄関で声も立てずに泣いていた。
ドアの郵便受けからは茶色い封筒の角が覗いていた。