死神と逃げる月
□全編
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《バスを待つ・3》
角を曲がったところで暢気な彼は足を止めた。
雨避けのついたベンチにお婆さんが一人。
そぼ降る雨と濡れていく街並みを、ぼんやり眺めている。
以前そこにバス停があったことなど忘れてしまった人たちが、みな傘を差して早足で通り過ぎていく。
暢気な彼は水溜まりに靴を汚しながら歩み寄り、お婆さんにそっと話しかけた。
「ばーちゃん、久しぶり。元気?」
お婆さんはハッとして顔を上げる。
他の誰かと間違えたのだろうか。
彼の顔を見て、わずかに落胆の表情を浮かべた。
「ああ、あんたかい。学校の帰り?」
「そうだよ。ばーちゃんは、いつもの散歩?」
お婆さんは頷く。
「待っている人には会えた?」
暢気な彼が、暢気に尋ねる。
お婆さんは、ひとつ大きな溜め息をついた。
「もう、いいんだよ」
「え?」
お婆さんの声は以前より弱々しく、雨音にかき消されてよく聞き取れなかった。
「私はね、もう諦めた。ここに来るのも今日で最後にするよ」
「いいの?明日帰ってくるかもしれないよ」
暢気な彼が、また暢気に尋ねる。
お婆さんは何も答えなかった。
「今夜また台風が来るって。ばーちゃんも早く帰りなよ」
「ああ、そうするよ」
お婆さんはそう言ったが
暢気な彼が次の角を曲がる時もまだ、ベンチに座って雨の街を眺めていた。