死神と逃げる月

□全編
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《this town, is THE TOWN.》




やあ、しばらく。
黒服だ。元気にしているか。




俺は春の風に焚き付けられて、柄にもなく手紙なんか書いてみている。




昔からの慣例に倣い、前任者が退いて三月が経った日に俺はこの街に来た。




新しい街というのは、いつも新鮮で爽快だ。
今回は季節柄、特に心地良く感じるよ。




それでふらふらと街を歩いてみたんだが。




聞いてくれ。
何とも不思議な街の話だ。
君だって不思議は好きだろう。




この街にはな、名前が無いんだ。
それだけじゃないぞ。




この街に住む人も、誰一人として名前を持たない。
名前の付けられた犬と猫は見かけたけれど、それ以外は全く。




こんな不思議な街は初めてだ。
なんて居心地の良い、素晴らしい街だろう。




それでいて、この街には何でもある。




学校もある。
工場もある。
テレビ局もある。
野球場もある。
山も海も。
橋だって。
タワーも見える。
線路もある。
高速道路もある。
パン屋の香り。
お寺の鐘の音。
郵便屋のバイク。
銭湯の煙突。
それに、悪い奴だってちゃんといる。




俺はとてもワクワクしているよ。




全てのものがまるで無いようでありながら存在していて、かと思えば見えなくなったりもする。




死神を見たことがあるという人もいれば、月を見たことがないという人もいる。




ここは、そういう街だ。




素晴らしい。
ああ素晴らしい。




それを君に伝えてみたかった。
故に手紙を書いている。




そう言えばあの歌、なんて題名だったかな。
最近は思わず口ずさんでいるんだ。




君の探し物も、この街にならあるかもしれないな。




それじゃあまた。




名前の無い君へ。黒服より。
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