死神と逃げる月
□全編
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《にこにこ》
何がそんなに楽しいのか。
その女性は先ほどからずっと、にこにこ笑っている。
「ところがですね、こちらのフードプロセッサーをお使いいただくと…」
玄関先で、若いセールスマンは熱心に新商品を売り込んでいるというのに
彼女はそれを、にこにこしながら聞いているだけなのだ。
「堅い鰹節も、このように簡単に粉末状に!」
思い切り抑揚をつけてみても、とにかくその様子を見て微笑むばかり。
断って追い返す気配も全くないが、買う気があるようにも見えない。
「いかがです。ご家庭に一台」
出せる力は全て出し切った。
そんな表情でパンフレットを閉じ、若いセールスマンが問いかける。
すると女性はパチパチと拍手までする始末。
それから少し物寂しそうに答えた。
「…あの、他には何があるんでしょうか」
「は?」
訪問販売のアンコールなんて受けたのは初めてだ。
もちろん拍手もだが。
しかし今回の新商品については、どれも説明を終えてしまっている。
「他の商品ですか?まあ弊社は色々とお取り扱いしておりますが、本日はこちらの資料しか持ち合わせておりませんので…」
ああそれは残念、と女性はうつむく。
「私、子供の頃からずっと入院生活でしたもので。訪問販売なんて初めてなんです。それが嬉しくて」
「は、はあ」
「まるで大道芸を見ているみたい」
そして女性は、大道芸に目を奪われる子供みたいだ。
笑いながら口元に当てた手には、白い包帯が見える。
「あの、それで購入のご検討の方はいかがで……」
費やした時間を無駄にはしたくない。
そんな想いで言葉を絞り出す。
それに対して女性は、あっけらかんとした様子で答えた。
「主人が帰ってこないと、私ではちょっと分かりませんので」
「……失礼いたします」
若いセールスマンは覇気をなくして、静かにドアを閉める。
さあ林檎の皮むきの続きをしよう。
女性はリビングへ戻っていった。