死神と逃げる月

□全編
80ページ/331ページ

《葛根湯を飲まなくちゃ》




「……っくし」




今日はやけに、くしゃみが出るなあ。




風邪でも引いたのかしら。




そう言えば八百屋のおじさんも咳き込んでいたし。




きっと、急に気温が下がったり夏の暑さが戻ったり、気候が不安定だからだ。




台風も近付いているって言うし、次第に秋の空気になるんだろうな。




念のため葛根湯でも飲んでおこうか。
薬箱は確か二階の部屋に。




「ごめんください」




いけない。
お店に誰か来たみたい。




急いで戻らなければ。




「こんにちは。サンマをくださいな」




「あら、お婆ちゃん。いらっしゃい」




この人は、よく買いに来てくれる独り暮らしのお婆ちゃん。




昔からの常連さんで、うちの両親とも仲が良かったのよね。




「お母さんはまだ退院できないのかい」




サンマを包んでいると、お婆ちゃんが心配そうに尋ねてきた。




「…ええ。もう少しかかるみたいで」




「そうかい。店番も大変だろうし、早く帰れるといいね」




本当に。




大学を卒業して間もない頃にお母さんが入院して、店番に明け暮れる日々が始まったんだわ。




お父さんも毎日欠かさずお見舞いに行ってるし。




うちの両親、昔から仲が良すぎるのよね。




「あ…」




「ん?どうしたんだい」




「あ、いえ」




そうか。




こないだの日傘の女の人、どこかで見たことがあると思ったけれど。




病院で見かけたんだ。




「じゃあ、また来るわね」




「ありがとう、お婆ちゃん」




そうそう。
お母さんのお見舞いに行った時に、何度か見かけたことがある。




彼女も入院患者らしくて、いつも寝間着姿だった。




こないだ見かけた時は服装が違ったから、すぐに気付かなかったんだわ。




退院できたのかしら。




「……っくし」




すっかり忘れていた。




葛根湯を飲まなくちゃ。




薬箱は確か、二階の部屋に。
次へ
前へ  

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ