死神と逃げる月
□全編
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《咳止めと睡眠薬》
「おや、八百屋の旦那じゃないか。へえ、具合悪いのかい」
診察室に入ると、医者が珍しいものを見るように言った。
「いや何、ちと咳が出るもんでね」
昼過ぎに店を閉め、私が訪れたのは近所の医院だった。
風邪も滅多に引かないので何年ぶりか分からない。
むしろこの医者とは、うちの八百屋のお客さんとして顔見知りなくらいだ。
「一応咳止めは出しておくけどね、一度大きな病院で見てもらった方がいいよ。肺の病気は悪化するまで症状が出にくいから」
「私は病院が嫌いだもんでね。知ってるだろう」
「まあね。旦那の性格はよく分かってますよ」
「でももう煙草はやめた方が」医者はそれとなく釘を刺す。
女房が生きていたなら、同じように言うに違いない。
とは言え丈夫な体と気っ風のいいのが私の売りだ、せいぜい軽い気管支炎だろう。
「お大事に」と見送られ、診察室を後にする。
待合室で薬を待つ間、色々な人が話しかけてきた。
やはり私がこんな所にいるのは相当珍しいようだ。
悪い気はしない。
うちの野菜を食ってれば病気なんてしねえさ、と宣伝も忘れなかった。
「こちらが眠れない時のお薬ですね」
窓口では、眼鏡の女性が薬の説明を受けている。
根元が黒くなった茶髪、服装はTシャツにトレパン、何ともだらしない若者だ。
親の顔が見てみたい。
ふとそう思ったが、何だか他人事ではないような気もした。
もしかしたら私の放蕩息子も似たように、親の顔が見てみたいと思われているのかもしれない。