死神と逃げる月

□全編
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《お婆さんと返す人》




玄関の方から物音がした。




夜中の10時を回った頃だ。




猫でもいるのかしら。
独り暮らしのお婆さんは、廊下の電気を点けた。




この家は少し広すぎる。




夫と子供がいた頃はちょうど良かったのだけど、いつの間にか独りになってしまった。




「どちら様?」




玄関に向かって呼びかける。




ドアに据え付けられた郵便受けから、何か薄茶色のものが覗いている。




さっきの物音は、あれが投函された音だったようだ。




「こんな時間に郵便屋さんかい?」




お婆さんは耳を澄ませる。




その夜はとても静かだった。
お祭りも終わって、みんな家に帰っているのだろう。




お婆さんの家は大通りから離れているので、車の音も聞こえない。




「…いえ、違います」




少しして、ドアの向こうから誰かが返事をした。
聞いたことのない声だ。




「怪しい者ではありません。あなたは最近若いセールスマンから、色々な物を買いましたね」




「ああ、あの子なら時々来ているよ」




言ってから気付いた。
この人はどうしてそのことを知っているのだろう。




「そのうちのいくつかに、不当な契約が含まれていました」




何だって?
お婆さんは思わず声を上げる。




「それも最初は小さな誤魔化しでしたが…次第にエスカレートしてきたので私も見過ごせなくなりました」




「そんな訳ないわ。あの子は良い子だよ。大体あんたは誰なんだい」




その問いには答えず、姿の見えない声は先を続ける。




「一番新しい契約書の控えをよくお読みなさい。彼はついに、説明したのとは違う商品の契約書とすり替えたのです」




「いいかい。あんまり勝手なことを言うようなら警察を呼ぶよ」




お婆さんがそう言うと、声はしばらく黙り込みました。




そう言えば、何を投函したんだろう。
お婆さんは郵便受けに手を入れる。




「…私は、あなたがこれまで不当な契約によって支払った分の代金を返しに来ただけです」




郵便受けから出てきたのは、何処にでもあるような茶封筒。




恐る恐る中を覗き込むと、今までに買った商品の代金と思われるお金が入っていた。




「ちょっと待って。こんなもの受け取れないよ」




お婆さんは慌ててドアを開けた。




しかし外には人の姿はおろか猫の一匹も見当たらない。




目に入るのは夜空に浮かんだ細い月くらいだ。




「私は、返す人です。無くした物を持ち主に返すのが私の仕事です」




最後にそんな声だけが、何処からともなく聞こえていた。
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