死神と逃げる月

□全編
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《どこかで》




いつものことながら、私は魚屋の店番をしていた。




お客さんが来ない時間には、いつも手紙を書いている。




手紙というか、物語のようなものだけど。
妄想の世界への現実逃避。




詩人にでもなったつもりの、人には見せられない恥ずかしい私の本質とか。そういう。




「はっ…」




店の前を女性が横切っていく。




一瞬、妄想のイメージが飛び出してきたかと思った。
女性はそれほどに存在感がない。




淡い桃色の日傘を差し、その左手の指先には包帯が巻かれている。




「綺麗な人…」




溜め息と共に、そんな言葉がこぼれた。
日傘で隠れて顔もハッキリと見えないのに、私はそう感じた。




真っ白なワンピースの袖から、同じくらい白い肌の細腕が見えている。




右手の先には林檎の入った袋。
その深紅と純白がどちらもよく似合う、凛とした女性だった。




私もあんな、透き通るような肌が欲しいなあ。
憧れる。




今年は特に日差しが強くて、店番をしていただけで私はすっかり焼けてしまった。




まるで夏を満喫したかのような小麦色をしているのに、実際のところ水着を着るような機会もなかったわ。




そもそも水着なんて持ってたかな。




「どこかで…」




はっと気付いて私は呟いた。




あの女性のことを、私は以前どこかで目にしている。




思い出せない。
一度や二度ではなかったと思うのだけど、例えば服装などが以前とは違っているのかもしれない。




頭の中で女性に色々な衣装を着せてみる。
あ、浴衣も似合いそう。




「浴衣か、いいなあ。夏のうちに浴衣も着ておきたい」




死んだ魚たちに囲まれながら、実現できもしない妄想ばかりが膨らんでいく。




そもそも浴衣なんて持ってたかな。




ああ、もうじき夏が過ぎ去ろうとしているのに。
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