死神と逃げる月
□全編
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《何故死神は彼を殺したか》
「いらっしゃいませー」
ああ、また新しい人が入ったのか。
郵便配達夫の彼は店に入るなり、そう思った。
ガソリンスタンド脇にあるこの牛丼チェーン店では先日、アルバイトの青年がバイク事故で命を落としたばかりだ。
そして今日はまた別の若者が、「研修中」のプレートを胸に付けている。
「じゃあ、山かけ牛丼」
郵便配達夫の彼は少し緊張していた。
仕事が終わって、本当は家で夕食をとるつもりだった。
心変わりしたのには理由がある。
「あの…あなたは、死神ですか」
彼は、隣の席に座っている男に声をかける。
男はゆっくりと彼の方を向いた。
さっき店の前を通ろうとした時に、全身を黒服に包んだその男の姿が見えたのだ。
間違いなく、先日ここで見かけた男だ。
次の瞬間、郵便配達夫の彼は店の中へ踏み込んでいた。
「やあ、俺のことかい」
意外にも気さくな態度で男は「ああ、そうだよ」と答える。
あの日はほとんどその姿を捉えることができなかったが、今日はハッキリと存在している。
「じゃあ、ここでアルバイトをしていた青年もあなたが…」
「そうだな。この街での初仕事だった」
あっさりと認めるものだな。
郵便配達夫の彼がそう思った時、注文した牛丼が運ばれてきた。
「何故ですか」
店員が店の奥に戻ったのを確認してから、郵便配達夫の彼は恐る恐る話を切り出す。
「何故あなたは彼を殺したんですか。彼が何かをしたんですか」
自分がまるで「ナゼナニ女の子」にでもなったように、彼は質問を続けた。
「殺したとは人聞きが悪い。彼は事故だし、俺は誰も殺していない」
「しかし、同じことでは?」
「君は今、割り箸を取った」
「は?」
いきなり何を言い出すのか。
確かに彼は割り箸を割ろうとしているところだ。
「君の前に箸入れは二つある。右と、左だ」
黒服の男は指を差して尋ねる。「では何故君は右から取った?」
「それは…僕が右利きだからです」
そう。それくらいのことなんだよ。
黒服は言う。
「死神に、何故殺したかなんて訊くのはナンセンスだ。君が右利きだったように、それが彼の寿命だったし、俺が死神だった。それだけなのさ」
さも当然のことのように言うが、そうなのだろうか。
勝手に寿命が訪れるのを見届けただけだというのか。
だとしたら一体、死神とは何のために存在するのだろう。
死神の役割とは何なのだろう。
黒服の男と話す間、不思議と怖さなどは感じなかった。
ただ彼は、自分が迂闊な好奇心から非日常の世界へ足を踏み入れようとしているのだと思った。