死神と逃げる月
□全編
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《便りないのは》
若いセールスマンが帰ると、独り暮らしのお婆さんは途端に寂しくなりました。
「おかしいね。もう何年も独りぼっちなのに…」
彼と話すうちにほんの少し昔を思い出してしまっただけ、お婆さんは自分に言い聞かせます。
少し遅くなったけれど、そろそろ日課の散歩に出ようかしら。
そう思って玄関のドアを開けると、家の前にちょうど郵便配達のバイクが停まったところでした。
「あ、こんばんは。お出掛けですか」
「あら、郵便屋さん。何か届いてるかい」
「ええと」郵便配達夫の彼は鞄の中から封筒を一枚、お婆さんに手渡します。
「誰だろう…八百屋のご主人からだわ。きっと町内会の夏祭りのお知らせだね」
「ああ、駅前の公園のお祭りですか。今年も楽しみですね」
「そうだね、楽しみだね」
並んだ提灯、賑わう屋台、浴衣を着て走り回る子供たち。
毎年変わらず、この街で見られる夏の風景。
お婆さんはまた昔を思い出して、少し寂しくなってしまいました。
「あの…」
「はい?」
「他に手紙は、あの子からの手紙はなかったかい」
突然の質問でしたが、郵便配達夫の彼には何のことだか分かりません。
念のため鞄にもう一度手を入れてみます。
「いえ、届いていたのはこれだけですけど…」
「そうかい。手紙や電話のひとつくらい、あったっていいのにね」
お婆さんには、ずっと帰りを待っている人がいるのです。
「ごめんなさいね、変なこと訊いて」
「いえ、じゃあ僕はこれで」
郵便配達夫の彼は笑顔で会釈をして、次の配達へと向かいました。
お婆さんは夏祭りのお知らせを持って、一度家の中に戻ります。
便りないのは元気な証拠と言うけれど、お婆さんが忘れた日は一日もないのです。
バスに乗って遠い街へ出て行った、あの優しかった息子のことを。