死神と逃げる月
□全編
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《林檎・2》
その日の八百屋は本当に暇だった。
厳しい暑さも一段落したというのに客足は思うように伸びない。
「まあこんな日もあらぁな」と八百屋の主人が、負け惜しみのように呟いたその時だ。
「こんにちは」
店先で女性の声。
低く落ち着いたその声に、聞き覚えがあった。
淡い桃色の日傘がまず目に入る。
それから左手に短く巻かれた包帯。
「林檎をふたつ…いただけますか」
「ああ、いつぞやの」
思い出した。
5月のはじめ頃、店を訪れて林檎を買っていった女性だ。
真っ白なワンピースの袖から、同じくらい白い肌の細腕が見えている。
「林檎をふたつですね」
八百屋の主人は林檎を包み、代金を受け取る。
ふと、女性の手の包帯が小さくなっていることに気付いた。
どういう怪我だったのかは知らないが、治ってきているようで八百屋の主人も少し安心した。
しかし、女性の表情は何処か浮かない。
暗く翳って見えるのは、日傘によって作られた影のせいだろうか。
「どうかなさいましたか」
八百屋の主人はお釣りを渡しながら言った。
「いえ、あの…そう言えば、さっきこの辺りに男の子が」
「ああ、あの坊主ですかい。この辺りじゃちょっと有名ですよ。いつも元気に飛び回ってる、英雄気取りの小学生ってね」
「そうなんですか」
「うちの出来の悪い息子も、小さい頃は正義感の強い、良い子だったなあ」
「あら、息子さんがいらっしゃるんですね」
「これがろくに働きもしねえで写真ばっか撮り歩いてますよ。ええ、お恥ずかしい話だけどね」
八百屋の主人は少し咳き込みながら、決まりが悪そうに頭を掻いた。
「親子ですもの、色々ありますよね」
日傘の女性は最後に笑顔を見せてそう呟くと、ワンピースを揺らしながら歩いていった。