死神と逃げる月

□全編
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《トマトとヒーロー》




「どうした、坊主。元気ないな」




そう声をかけてきたのは、八百屋のおじさん。




おじさんは前に一度、キュウリで遊んでくれたから良い人なんだ。




「どうしたい、トボトボ歩いて。いつもみたいに「たーん!」ってやらねえのかい」




僕は一応、小さくポーズだけとってみせた。
でもやっぱり気分が乗らない。




「ヒーローにも色々あるんです」




今日の僕は、ちょっと不機嫌なのです。




「そうかあ。こんなに暑いからなあ。夏バテだろうか」




おじさん、別に体の具合が悪いんじゃないんだ。




ただちょっと、今日は不機嫌なだけ。




「坊主、トマトは好きか」




気付いたら、おじさんは両手に真っ赤なトマトを持っていた。




それを袋に詰めていく。




「トマトは嫌い。リンゴのニセモノなんだもん。もっと甘いやつがいい」




「まあそう言わねえことだ。うちの野菜を食ってれば、夏バテだって何だって簡単に治っちまうんだから」




「お代は要らねえから持ってきな」と言いながら、おじさんは少し咳き込んでいた。




「なあんだ。野菜いっぱい食べてるはずなのに、おじさんも体の具合悪いんだね」




「いや…ははは。おかしいなあ。今まで病気なんてしたことないんだが。煙草が好きだから、そのせいかなあ」




また2、3回、咳をしてから、トマトの入った袋を僕に差し出した。




「でも、本当に今日は良いトマトが入ったのに客が少なくてなあ。もったいないから誰かに食ってほしいんだよ」




おじさんは本当に残念そうにしていた。




「…うん、分かったよ」




トマトの袋を受け取る。




僕はヒーローです。




だから誰かの悲しい顔なんて、見たくないのです。
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