死神と逃げる月

□全編
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《べっぴんさん》




また来たわ。




猫のサチコは寝たふりをした。




「こんにちは。君は今日もべっぴんさんだ」




チノパンのよく似合う爽やかな青年が、お店の外から丸いレンズをこちらへ向ける。




あれは風景を写す機械、カメラというものらしい。
通行人の会話で以前に聞いたことがあったわ。




最初の頃はちょっと怖かったけれど、どうやら危害はないものみたい。




「君は本当に素敵だよ。今まで出会ったどんな猫よりも。女の子かな?」




カメラを持ったその青年は、ここ最近毎日のように私を撮りに来る。




暇なのかしら。




「この間ちょっと遠出して岬の方まで行ってきたんだけど、そう言えばそこにも猫が沢山いたな」




青年はカメラから手を放すと、何枚かの紙を取り出した。




「ごらん。その時の写真だ」




私は瞼を少しだけ開いた。
そして数秒と経たないうちに目を奪われた。




ここは駅前の通りに面している場所だから、きらびやかなものはそれなりに見慣れているつもりだ。




けれど、彼の写真は人工的なそれらとは比較にならないほど、美しかった。




夜明けの光だとか、荒々しい波しぶきだとか、そんなドラマチックな光景が広がっている訳ではない。




ただ静かな海の写真。
それなのに、まさにその場に立っているかのように、水面の揺れる音が聴こえてくる。




実際の景色はさらに美しいのだろうか。
それとも彼の写真の腕前が良いのだろうか。




『キレイね』




いけない。
私は思わず言葉にしてしまった。




慌てて寝たふりを決め込む。




「見えるかな。今日はこれくらいしか持ってないんだけど」




幸い、彼には声が届いていなかったようだ。




「君の写真も、今度持ってくるよ」




そう言うと、彼は駅とは反対の方に歩いて行った。




私には楽しみがひとつ出来た。




そして写真好きの彼は、きっと明日も私の写真を撮りに来るに違いない。
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