死神と逃げる月
□全編
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《初仕事》
売れた。
売れた売れた。
ついに浄水器が売れた。
駅前の人混みの中で、俺は弛みそうになる表情を我慢しながら小さく呟いた。
「まあ、若造が年寄りに情けをかけられたようなもんだけど、それだって契約は契約だ」
ひとつ売れれば後は続く。
先輩にこないだ言われた言葉だ。
小難しいことをタラタラと述べるばかりで正直あまり好きな先輩じゃないんだが、経験者の言うことだからきっと俺の前途も明るいに違いない。
「しかしなあ、こんな浄水器に高い金払う人間の気が知れないね」
俺がそんな気持ちで営業してるから売れないんだろうけど。
鞄の中から、自分自身全く興味の湧かないパンフレットを指でつまみ上げる。
「水なんて飲めれば何でもいいじゃねえか。会社の命令だから売り歩いてるけど、俺なら絶対に買わないよ」
しばらくパラパラとページを捲っていると、ふと誰かの視線を感じて顔を上げる。
向こうに見えたのはブティックだった。
大人向けの品揃えなのか、今の若者には少し古く感じるデザインの服が多い。
そのブティックにあるショーウィンドウの中で、尻尾にリボンをつけた真っ白な猫が俺の方を見ているのだ。
「なんだ、猫か。お前も浄水器を買いたいのか?」
そんな冗談を言いながら近寄ってみたが、猫は置物みたいに動かないまま、その目だけが俺をじっと見つめる。
心の奥を見通しているのかと思うくらい、強い眼差しだ。
「な、何だよ。その目は」
まるで自分の中の罪悪感に睨まれているようだ。
確かに、お客様サポートの有料サービスに自動的に加入するとか、水質が体に合わない場合があるとか、細かい説明はいくつか省いた。
それに独り暮らしの婆さんには、もう少し小さくて手頃な価格の機種もあったさ。
だけど婆さんだって喜んでいたんだから、いいじゃないか。
「…別に悪いことしてる訳じゃないし、俺は商品を売るまでが仕事なんだ。その後のことは知らない。文句ないだろ」
そう言うと、白い猫が少し呆れた表情を見せた気がする。
それから大きなあくびをひとつ。
『そんな生き方してると、ろくな死に方しないわよ』
頭の中で一瞬、そんな声を聞いたような気がして背筋がゾクッとした。
慌てて後ろを振り返ったが、相変わらず駅前の通りは行き交う人々で溢れている。
「…気のせいか」
そろそろ行かなければ。
俺はパンフレットをしまう。
それを見届けると猫は、眠たげにユラユラと立ち上がり店の中へ消えて行った。