死神と逃げる月
□全編
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《通り雨》
老婆が日課の散歩を終えて家に戻る途中、予報どおり雨が降ってきた。
この雨は梅雨前線とは関係なく、はぐれた雨雲が局地的に降らせる短いもの。
気象予報士はそう言っていた。
ならばきっとすぐに止むだろう。
老婆は傘を差して、のんびりと歩く。
家は、少し入り組んだ裏路地を進んだ所にある。
近所のバス停が無くなってからというもの、何処へ行くにも少し遠くて不便になった。
「あら…」
老婆が家に着くと、そこには見知らぬ人影があった。
20代と見えるスーツ姿の若い男が、玄関の庇の下に立っている。
空模様を気にしたり、庭の紫陽花を眺めたり、落ち着かない様子だ。
老婆は一瞬、バス停でずっと待っていたあの子が帰ってきたのかと思ったが、そんなはずはない。
その若い男と同じくらいの年頃にあの子は出て行って、それからもう15年は経っているのだから。
「どちら様?」
声をかけると、男は尚更落ち着きをなくしてこう言った。
「あ、す、すいません。急に雨が降ってきたもんでちょっと雨宿りを」
死神さんもそうだけど、この子も天気予報を見なかったのね。
老婆は玄関の鍵を開けた。
「お入んなさい。通り雨みたいだし、止むまでお茶でも飲んでいったら」
「え、いえ、でも僕、仕事中でして」
「あら、何のお仕事?」
「浄水器を売ってるんです。と言ってもまだ全然売れてませんが…」
うつむいて肩を落とす彼を見ていると、老婆は何だか可哀想に思えてきた。
情というのか、親心でも湧いたのか、気付けば老婆はこう言っていた。
「じゃあその浄水器とやらのお話を伺うわ。さあどうぞ」
若い男は少し躊躇いつつも、言われるままに家の中へ入って行った。