死神と逃げる月

□全編
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《牛丼》




夜の19時を回った頃、タクシーの運転手は給油がてら夕食をとることにした。




彼は大体いつもガソリンスタンドの傍にある牛丼チェーン店に入る。




店員ともすっかり顔馴染みなのだが、その日は見たことのない青年が一人いた。
胸に「研修中」のプレートが見えるから、新しいアルバイトが入ったんだろう。




だが、他にも何かが違っているような空気を感じて店内を見渡す。




カウンターの一番端の席に妙な男。
どうやら違和感はその男から漂っていた。




服装が全身真っ黒であることもそうなのだが、それ以上に不気味な存在感を示している。




そこにいるような気もするし、いないような気もする。




そしてカウンターの中の青年は、その黒服の男には全く気付いていないようなのだ。




「じゃあ牛丼ひとつね」




タクシーの運転手は迷わず、男の隣の席に座る。




男はカウンターに背を向けて座り、何処か遠くを見つめているようだ。




それから1分と経たないうちに青年が、まだ慣れない手つきで牛丼を運んでくる。




「良かったら食べますか」




タクシーの運転手は割り箸を取ると、黒服の男に声をかけた。




気を抜いていた男は、話しかけられたことにすぐには気付かなかったようだ。




「…や、俺のこと見えてたのか」




「気分的にね、今日は見える日らしいですよ」




黒服の男は割り箸を受け取って割ると、「じゃあ一口だけ」と牛丼を口に頬張った。




「でもあんた、俺が怖くないのかい」




黒服の男がそう言うと、戻ってきた牛丼に手を合わせながら「色んな客を乗せてるからね」と運転手は答える。




「むしろ、死神と仲良くなれば長生きさせてくれるかもしれないじゃないか」




「あんた個人タクシーかい」




運転手は頷く。「気楽なもんですよ」




「そうか。俺は下請けみたいな存在だからさ、自分で仕事を選んだり誰かを長生きさせたりはできないんだ」




「それは残念。死神の世界も色々だね」




黒服の男はゆっくりと立ち上がる。




「じゃあ行くよ。そろそろ俺もこの街で仕事を始めないと。牛丼ごちそうさん」




「行くとこあるなら送りますよ」




タクシーの運転手はそう呼びかけたが、黒服の男は笑みを浮かべただけで、何も言わずに店を出て行った。
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