死神と逃げる月

□全編
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《魚にドレス》




今日は珍しくお休みをもらえたので、魚屋の娘は新しい本を買いに行くことにしました。




家にある本はもう何度も読んでしまったし、駅前の本屋に来るのは久しぶりです。




本屋があるのは建物の3階から上。
1階はゲームセンターで、2階にはファミレスが入っています。




彼女が最近気に入っている沙翁の問題劇は5階の売場。




悲劇を孕んだ喜劇が、最近の心境には不思議と心地よいのです。




空には雲ひとつなく、すっかり夏の空気。
汗だくになりながらティッシュを配っている人もいます。




本屋に向かう途中のブティックのある角を、バスがゆったりと曲がっていくのが見えました。




「あ、猫」




そのブティックには、真っ白な猫がいました。




大きなショーウィンドウの隅で、つんとすまして通行人を眺めています。




「前に来た時はいなかったと思うけど」




尻尾に藍色のリボンをつけて、ブティックによく似合うオシャレな子です。




きっとこの店の看板娘として、常連客からも可愛がられているのでしょう。




「いいね、あんた。可愛くしてもらってさ」




言いながら彼女は、ガラスに映った自分の姿を見ました。




大学を卒業してから魚屋の店番ばかり。
デートのひとつもしたことがありません。




後ろで束ねた髪もだいぶ伸びてきたし、何だか疲れた顔をしています。




(ああ、魅力のない私には綺麗な服なんてきっと似合わない。豚に真珠ならぬ、魚にドレスだわ)




ショーウィンドウの中で着飾っているマネキンを羨みつつ、そろそろ行かなきゃと猫に手を振りました。




今度は反対方向のバスが、またゆったりと角を曲がっていきます。




『別によくなんかないわよ。尻尾のリボンも邪魔なのよね』




「え?」




誰かがそんなことを言った気がして、彼女は振り返りました。




真っ白な猫は、相変わらずつんとすました様子で向こうを見ています。




「…まさか、ね」




魚屋の娘は首をかしげながらも、本屋のある建物へと向かうのでした。
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