死神と逃げる月

□全編
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《物語は収束へ・3》




黒服の男には猶予が与えられた。




始まりを探す彼女の問いに答えるまで、意識が消えることはないだろう。




「仮に」




そして黒服には、思い当たることがひとつだけあった。




「仮に君が蝙蝠傘の彼女だと…いや、そうでないにしても君の記憶と何か関係があるとするならば」




失礼のないように。
慎重に言葉を選ぶ。




「ひとつ、ハッキリすることがある」




「それは?」始まりを探す彼女がすかさず尋ねると




「鼻歌の主だ」黒服は答える。




始まりを探す彼女が食事を共にしたという相手。




鼻歌を教えてくれた彼。




頼まれて黒服も探してはみたものの、結局それはタクシーの運転手でも八百屋の主人でもなかった。




だが、ここに蝙蝠傘の彼女を当てはめて考えてみれば




答えはひとつ。




「鼻歌の主は、あのホームレスに他ならない」




あの男も、かの曲を知っていた。
口笛を吹いていたじゃないか。




「夏祭りで聴いた」という証言の方に気を取られてしまったが




思い返せば、以前からその曲のことを知っていたような口振りだった。




「どうだ、これならば辻褄が合う」




始まりを探す彼女は首を傾げた。




果たしてそうだったか。
いや確かに、そうだったのかもしれない。




今となっては、指摘されても判断がつかないほどに記憶の色は薄まってしまった。




それなのに、こうして胸の奥が締め付けられ




搾り出すように涙が落ちるとは。




泣いているのか。




だけどこれは私ではない。




私ではない誰かの心が今、打ち震えて泣いている。
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