死神と逃げる月
□全編
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《カレーの匂い》
七月の終わりの静かな夜。
妖しげな月に誘われて
八百屋の主人は海を目指した。
今夜の空気はジメジメしているものの、さほど暑くは感じない。
たまには夜風を浴びながら、ふらっと散歩もいいもんだ。
息子も何処かで、この月を見上げているのか。
いや、世界の裏側にでもいたら向こうは真っ昼間だ。
「しかし風情だねぇ。月は心を照らす灯台さなぁ」
次第に潮騒が聴こえてきたけれど、海はまだ見えない。
外国の花で埋め尽くされた庭の前を通り過ぎ
ベランダに吊るされた風鈴の音を聴きながら歩いていると
潮風に乗って何処からか、カレーの匂いがする。
夕飯にカレーを食べたご家庭があるんだろう。
「いいねぇ。夏はカレーに冷たい麦茶が最高だ」
いやカルピスも捨てがたい。
懐かしい食卓の風景を、八百屋の主人は思い巡らせた。
一体何処から漂ってくるのかと、カレーの匂いを辿ってみれば
どうやら犬小屋のある、あそこの民家からのようだ。
きっと久しぶりに家族が揃って、カレーで団らんをしたんだろう。
勝手に想像する。
自分はいつの間にか一人になってしまったが
カレーの匂いを嗅ぐだけで、息子が小さかった頃の思い出がすぐ蘇ってくる。
「明日辺り、カレーにするかね」
犬小屋の中からは、大型犬の鼻先だけが外に出ていて
寝ているのか起きているのか、ヒクヒクと小刻みに動いていた。
きっとこの犬も、漂うカレーの匂いを嗅ぎ付けて
人の温もりを感じたりしているんだろう。