死神と逃げる月

□全編
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《夢を乗せて》




『建設費が膨れ上がった新スタジアムの問題で、政府はデザイン案の見直しを表明し…』




乗り込んだタクシーのカーラジオからは、そんな話題が流れていた。




夢の無いニュースだ。
元セールスマンの彼はお腹の辺りを気にしながら思った。




夏バテだろうか、先ほど食べた牛丼が胃袋を重くしている。




「こんな気分のいい日は、ドライブしたくなるね」




騒がれていた台風もいつの間にか姿を消し、見渡す限りの青空。




街全体が活気づいているようで、子供の声があちこちで響いていた。




「行きますか。前みたいに」




タクシーの運転手が振り向いて言う。




よく見れば、以前乗ったのと同じ運転手じゃないか。




あの日は自棄を起こしていて、多少割り引いてくれたものの財布がだいぶ軽くなったのを覚えている。




「やめときます。手持ちもそんなに無いし」




それに今日はもう、行く所が決まっているのだ。




元セールスマンは行き先を告げる。




「ああ、お墓参りですか」




「まあ、お盆の時期っすから」




と言っても、お盆というものを具体的にはよく分かっていない。




とりあえず夏のうちに一度、手を合わせに行こうと思ったのだ。




『次のニュースです。延期されていた旅客宇宙船の打ち上げが現地時間の本日16時、無事に…』




カーラジオは相変わらず饒舌だ。




そう言えば、そんなニュースも有ったような無かったような。




いや、随分前に聞いたんじゃなかったか。
元セールスマンは眉間にシワを作りながら考えた。




「庶民が気軽に宇宙に行ける時代も遠くなさそうですねぇ」




待ち遠しそうに言う運転手に「なるほど」と頷いて




元セールスマンは目を閉じ、想像した。




入道雲のそびえる夏空を、滑るように宇宙船が昇っていく。




あれに親しい人が乗っている。
そんな光景を。




「いいっすね。夢がある」




タクシーは一人の乗客と運転手、それに夢を少しだけ乗せて




熱くなった国道を走っていった。
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