死神と逃げる月
□全編
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《天敵・2》
やがて黒服の男は、決心がついたように頷いた。
ゆっくりと男の子に歩み寄り、真っ黒な手袋をした右手で優しく額を撫でる。
男の子の体は静かに前へ傾き、黒服によって受け止められた。
「今は眠れ。そして忘れるのだ。それは一時の世迷い言だったと知るべきだ」
男の子をそっと横たわらせて、儀式を続ける。
さて何処まで終わっていたか。
次の段取りは。
「や、お前は」
突然、黒服の男は身を翻した。
英雄気取りの小学生の後ろには、見覚えのあるゴールデンレトリバーがいたのだ。
「どうしてここに。一緒に来たのか」
ゴールデンレトリバーは、じっと黙って男の目を見る。
黒服の男はまた思い出してしまった。
嘘吐きな彼女との一件は、胸の奥の方に心残りとして仕舞い込まれたまま
なるべく見ないようにはしているものの、実のところ未だに解き放たれてはいない。
故に彼女の飼い犬を目の前にして、胸が痛まない訳はなかった。
彼は再び、問いかけられている。
彼女は本当に自分のことを許してくれたのだろうか。
そうでないとしたら、あの時彼女に何をしてやれば良かったのだろう。
死神である自分に、どんな恩返しができたというのだろう。
ここしばらくは人探しに明け暮れて、思い出さずに済んでいたのに。
「もしかしたら」
黒服の男はようやく言葉を捻り出した。
ゴールデンレトリバーは吠えようとはしない。
ただ真っ直ぐに、男の葛藤を見守っているようだった。
「始まりを探す彼女も何かを忘れたくて、ずっと探し物を続けているのかもしれないな」
そう言うと黒服の男は、ゴールデンレトリバーの額を右手で撫でる。
その時、壁の時計の長針がカチッと音を立てて動いた。