死神と逃げる月
□全編
292ページ/331ページ
《こんな不思議な夜だから》
「本当は、ダメなんだけどさ」
赤信号で停車すると、タクシーの運転手は
バックミラーを覗きながら苦笑いを浮かべた。
後部座席には一人の男の子と、大きな犬が寝そべっている。
「まあ、きちんと躾けられているようだし。こんな不思議な夜だからね」
しばらく待ってみたが、信号は変わらない。
やはり今夜は、この街に何かが起きている。
それに気付いたのは、いつものように客を降ろして駅前まで戻る途中。
はっきりとは覚えていないが、ある瞬間から人通りが全くなくなったのだ。
まるで本物そっくりの別世界へと迷い込んだような。
いや、むしろ街の人たちが何処かへ飛ばされてしまって
自分だけが、うっかりその流れに乗り損ねたのかもしれない。
ともかく手を挙げる人がいなければ、タクシーは仕事にならない。
誰もいない駅前を抜けて、しんと静まり返った国道に入ったところで
ようやく小さな客を見つけたのだ。
「あの、お金」
「ああ、いいよ。ルールなんて、有って無いようなものだ。こんな不思議な夜だからね」
一向に変わらない信号に見切りをつけて、路地に入ることにした。
回り道になるけれど、大丈夫。
時間はたっぷりあるのだ。
そう言えば月も、駅ビルに寄り添うように浮かんだままで
時間が経っても、それ以上の高さへは昇らない。
「ところで、また家出かな。それとも迷子」
ラジオをつけても、音楽は流れてこなかった。
そのせいだろうか、運転手はいつもより口数が多くなっている。
英雄気取りの小学生は真剣な表情で「いえ、決戦です」と答えた。