死神と逃げる月
□全編
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《噂》
「ほら、あの海沿いに住んでいる」
「ああ、漫画家だっていう」
「あの人、愛想ないわよね」
その八百屋はいつでも主婦たちの憩いの場所。
夕食前の時間帯になると、噂話を持ち寄って集まるのだ。
「その漫画家さんが、どうかしたんですかい」
八百屋の主人は時々それに相槌を入れながら、巧みに野菜を薦める。
そういう要領の良さも夕方の賑わいも、思い返せば先代の店主の頃からそうだった。
「自殺未遂ですって」
「薬で朦朧としたまま、海に入っていったらしいのよ」
「この間の救急車は、そういうことだったのね」
どうやら主婦の1人が病院の人間と知り合いらしく
ネットで購入したと思われる粗悪な睡眠薬が良くなかったとか
多量に飲酒もしていたらしいとか
どこまで本当かは分からないが、やけに詳しく説明をしている。
「未遂ってことは、無事だったんですかねぇ」
八百屋の主人は、自分が病院に運び込まれた時のことを思った。
きっとあの時もこうして、話の種になっていたのだろう。
「まだ危険な状態だとかで。ずっと意識も戻らないんですって」
「怖いわねぇ」
「やっぱり漫画ばかり読んでいると、良くないんじゃないかしら」
そうねそうね、と主婦たちが口々に言う。
その時、「たーん!」という掛け声がして
八百屋の主人は確かに見たのだ。
背中にエンブレムの入った青いジャンパー、春風に風呂敷マントを靡かせながら
誰かの助けを呼ぶ声を聞きつけたヒーローのように
雄々しく駆け出していく、小さな男の子の姿を。