死神と逃げる月

□全編
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《振り出し》




それは再び冬が戻って来たような寒い日だった。




もう4月に入って1週間が過ぎたというのに、朝から雪が降り




やがて冷たい風を伴った雨に変わる。




こんな日は何かが起こりそうだな、とタクシーの運転手は思っていた。




そしてそれが訪れたのは、雨も上がった夕方のことだ。




「なあ、あんた」




突然、後部座席の男が話しかけてきたのだ。




(はて、客なんていつ乗せただろう)




運転手は一瞬面食らったものの、それがあの黒服の男だと気付き




彼ならば神出鬼没でも不思議はないな、とすぐに納得する。




何故なら彼は、この街を担当している死神だからだ。




怖くはない。
黒いだけだ。




「どちらまで」




「いや、そうじゃない。訊きたいことがある」




黒服は「まあ答えは分かっているが」とでも言いたげに




まるで真犯人を追い詰めた刑事のような顔で、言葉を続けた。




「あんたは昔、誰かに鼻歌を教えたことがあるだろう。そうだろう」




そう、よく一緒に食事をとっていた誰かに。




黒服は相変わらず、得意げな笑みを浮かべている。




「鼻歌って?」




この歌だ、と黒服は口ずさんだ。
人生は素晴らしいという歌を。




「ああ、確かにその歌なら知っている。我々の世代だからね」




運転手が認めると、黒服はますます嬉しそうな顔をした。




「でも誰かに教えたりした覚えはないな。鼻歌を歌う癖がついたのも、この仕事に就いてからだよ」




「何だと?」




「よくラジオをかけるからね。昔より音楽と親しむようになったのさ。ああ、その曲もラジオで数十年ぶりに聴いてね」




懐かしかったなあ。
運転手はしみじみと語る。




黒服は茫然とした様子で、力なく呟いた。
「ま、また振り出しか…」
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