死神と逃げる月

□全編
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《今宵の月》




「何を見てるんだい」




公園に住むホームレスは、以前猫に訊いたのと同じようなトーンで




今夜は、停められた車の脇に佇む男性に声をかけた。




彼には何度か会ったことがある。
この辺りを縄張りにしているタクシーの運転手だ。




「何だ。あんたかい」




運転手も見知った顔に気付き、帽子を取った。




時刻は深夜の2時過ぎ。




終電を逃した人たちの列も消え、ひと息つきながら




缶コーヒー片手に運転手は、薄暗い空を見上げていた。




「UFOでも、待ってるのかね」




ホームレスも面白がって、一緒に天を仰ぐ。




公園の桑の木が街灯に照らされて、ざわざわと話し声を立てていた。




「月食らしいね」




空を見上げたまま、運転手は答えた。




そう言えば昼間も誰かが、今夜は皆既月食だと騒いでいたような気がする。




「月食ってぇと、地球の影が月を隠しちまうってアレかい」




「ええ。残念ながら曇っていて見えないようだがね」




運転手は諦めて空き缶をくずかごに捨てに行った。




確かに、今日の夜空は全体的に灰色の幕がかかったようになっていて




月の光なんて何処にも見当たらない。




ところがホームレスは、ニヤリと金歯を見せてこう言った。




「いや、出ているよ。今宵の月は特に綺麗だ」




戻ってきた運転手に「ほれ、あそこだ」とホームレスは指を差す。




けれどやはり運転手の目には、ただ灰色の空しか見えなかった。




「まあ、世の中には見えない方がいいこともある」




ホームレスは寝床のある方へと帰っていく。




「そうかもしれないな。地球だって自分の影なんか見せられたくないだろう」




タクシーの運転手は小休憩の締めにそんなことを呟くと




また深夜の業務に戻るのだった。
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