死神と逃げる月
□全編
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《海岸にて・4》
春の海岸にて。
漫画家の彼女は裸足のまま、眼鏡もかけずに
砂に足を取られながら、ゆっくり海を目指していく。
月の明かりもない、真っ暗な夜だった。
「帰りたい」
彼女がそう呟いたのを、黒服の男は確かに聞いた。
今まで何があっても口には出さなかった言葉だ。
「もう帰りたいよ」
黒服は目を閉じたまま、潮騒と彼女の声だけを聞いていた。
「私はそんなに強くなかった。強がっているだけだった。そんな私でも頑張れば何とかなると思いたかったんだ」
頬を濡らしながら摺り足で、ゆっくり海を目指していく。
産卵を終えたウミガメが海に戻っていくように、疲れた体を前に押し進める。
黒服は彼女の前に立ち、夜の闇よりも黒いマントを大きく広げた。
沖へと誘っているのか、それとも行く手を阻もうとしたのか。
漫画家の彼女は目を伏せたまま、黒服の傍を通り過ぎていく。
やがて砂の感触が変わる境界を越えると、波は何本もの手のように彼女の足を掴んで引っ張った。
けれどすぐに砕け散って、彼女を置き去りにしてしまうのだ。
「あの場所まで、連れて行ってくれないかな」
「この海の向こうにあるのかい。君の故郷は」
以前も黒服は、彼女にそう尋ねたことがある。
その時は確か、彼の声は彼女の耳には聞こえていなかった。
今はどうだろうか。
「帰ろう」
彼女は答えないが、やはり聞こえていないのだろうか。
死神の囁く声も、放課後に響いていたあの小さなヒーローの声も
聞こえていないのだろうか。