死神と逃げる月

□全編
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《伝説の・2》




「ちょっと待って」




玄関先で彼女は呼び止めた。




ちょうど少年が靴を履き終え、玄関のドアを開けた瞬間だ。




季節は春。




花粉症のくしゃみが家の前を通り過ぎたかと思うと




今度は車が、カーラジオから春の歌を溢しながら走っていく。




小さな虫たちも、どこかで目を覚まし始めていることだろう。




「これ、着て行って。夜はまた寒くなるそうだから」




差し出したのは、青いジャンパー。




本当の母親のように少年のことを思いやる彼女が、いつだか買ったまま渡せなかったプレゼントである。




しかし少年は首を横に振る。




「どうして」




彼女が問うと、「これでいい」と少年は答えた。




これというのは、いつもの半袖に短パンのスタイルのこと。




雨の日も雪の日も、彼は同じような格好で走り回っている。




長袖のジャンパーなんて着たことがない。




「そうなの?カッコいいのに」




ほら、とジャンパーを広げて見せた。




彼女の声は女性にしては少し低く、不思議と心が落ち着く声だ。




「この、背中の大きなエンブレムなんて特に。伝説の、みたいで」




「えっ。伝説の?」




少年はジャンパーをじっと眺め、それからもう一度尋ねた。




「伝説の、みたい?」




正義のヒーローだとか伝説の英雄だとか、そういうものに憧れた少年。




あんなふうに強くカッコよくなりたい、彼はいつだって思っている。




「そうね。ヒーローが着てたらカッコいいかも」




少年はとりあえずそのジャンパーを手に取り、玄関を出て行った。




少しずつ、この子との上手な接し方が分かってきた気がする。




手を振りながら彼女は、そんなことを考えて嬉しくなった。
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